「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」の街を歩く 雑談 2014年09月30日 0 「公園向かいの道沿いにはまっすぐに線路が渡り住宅街の間を抜けていく。」 立夏です。 夕方の、陽が落ちる直前の頃に時間が空いたので少し出掛けようと思いまして、小さい肩掛けだけ背負ってフラフラ当てもなく散歩しに行くことにしました。 しばらく歩き続けると、空の色がみるみる変わっていきます。マジックアワーと呼ばれる、ちょうど夕方と夜の間の一瞬の時刻です。 この色合いの空、好きな方も大変多いのではないでしょうか。 出掛けた時にこの空が目に留まっても、普段はいつも急いで劇場なんかに向かっていたりなんてことが多くて。でも今日は前述のとおり時間があったので写真を撮りました。 私もこの昼と夜が混ざったグラデーションの空色がとても好きなのですが、獣の仕業第七回公演「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」と言う作品でこのくらいの時間の風景を物語にしました。 ” やがて街は夜と夕暮れの間の時刻になる。世界に魔法が掛かる時間。 (中略) しんとした夜独特の魔法は、水を吸ってゼリー状になって、僅か開いた夕焼けの隙間から音も立てずに降り注ごうとしていた。" ああ、これは「群集」の時に書いた風景だなあと思い、そのまま思いつきで踏切を探すことにしました。踏切、そしてそこを通過する電車、このふたつは夕焼けやマジックアワーと同じく、「群集」の重要なモチーフでした。 踏切、ありました。(そもそも沿線を歩いていたのでそんなに探し回っていません) ”公園向かいの道沿いにはまっすぐに線路が渡り住宅街の間を抜けていく。” " 線路の消失点から均等に並んだ踏切が、こちらに向かって順ぐりに遮断機を下ろしていく。” " 電車が通過する。かん・かん・かん・かん ・・・ ” ここはちょうど「群集」の舞台にほど近い街。作品の中に登場するモチーフが街の中に溢れていました。 そのまま線路沿いにフラフラと歩いて行きます。歩きながら写真を撮って回るのは初めてなので何を撮ったらいいか分かりません。ただとにかく目に留まったモノを切り取っていきました。 線路沿いに打ち捨てられたビニール傘、そびえ立つ真っ黒な建物。 撮った写真を眺めていると、そういえば私もこういうその時目に留まったモノで「群集」を書いていたな、と思い出しました。 何故か目に留まる、私の視界に入る、周りに溢れている沢山のモノから、私がそれを選択する、理由が分かる前に、とにかくそれを描写する… そういう自意識をキッカケにして書かれたのが「群集」です。 嵐に打ち捨てられたビニール傘ぜったいきみのものにならない 帰り道あの日の少女が振り返る「先に行ってて」「お願い」「待って」 これはチョークだろうか? みらいをささえる たまによく分からないものも撮ってしまう そんなことをしている内にだんだん陽も落ちてきたのでじゃあ電車で帰りますか~と言う次第(陽が落ちた街を歩くのがあまり好みではないのです)。 家に帰ってから撮った写真を眺めつつ、そういえばちょうど一年前だったなと思い出しました。「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」の上演日です。今日は思い出してばかりです。 どうせならもっともっと遠出してタイヤの怪獣の公園まで行っても良かったかなと少し後悔しながら本日オシマイとさせていただきます。 PR
新マスコット? 雑談 2014年02月13日 0 こんにちは。小林です。今日は「例を見ないほど連投したもんねえ」と甘えた考えを持っていたのですが、なんだか気分が高揚していますので、しっぽりと更新しようと思います。あ。誤解をなさらないでいただきたいのですが、私はブログの更新は結構楽しんでいるのです。だがしかし、南の方向から「小林は暇に違いない」という熱風の噂を聞きまして、「い、いかん!多忙なふりをしなくては!」と思い、更新を遠慮しようかなどと思っていただけです!ぎゃははー。しかしやはり更新してまいります。はっ!…獣の団員という誇りを持って更新していきますね、何が「ぎゃははー」でしょう、自分の中にいるもう一人のビリーバンバンが芽吹いてしまいました。自重せねばです(?)はてさて、今日は獣のメンバーで今年度の活動について打ち合わせを行いました。またこちらのHPにてお知らせなど行っていこうと思いますので、乞うご期待でございます。ありがとうございます。今日は本当に短いですが、もう睡魔という悪魔が私の中のビリーバンバンを蝕んでおります。しかし私の中のビリーバンバンは強いです、その強さ相まって、とうとう、とうとう今日、この世界へ飛び出しました。さあ、新しいマスコットの登場です!その名も「こばやしchan」です! 立夏作です。私の中に立夏の作品がいたのですね。これは深い話でございます。一応「こばやしchan」と名づけられましたが、さすがは私の分身、聞き分けがありません!「どうもヌン。おで『こばぬん』だヌン。」出たー!ゴーマニズム!さすがは小林!「獣ちゃん?あいつはおでのコピーだヌン。だまされちゃあいけないヌン。ちっちっち。」むかつきますねー!「獣ちゃんのライバルはエビフライ?おではトンカツだヌン。…ヌ?ヌンヌヌーン♪」おっと。ご機嫌ですこばぬん。ではここで、頼まれてもいないのに、こばぬんは歌います。メロディーは「まんが日本昔話」のオープニング(ぼうや~よいこだ…)です。「けもの~よいこだヌンヌしな~ヌーヌヌヌヌヌヌンーヌンー♪」以上です!これは期待ができますね、愛されるかどうかは分かりませんが、こんなやつも生息してしまったのですね。獣の仕業、恐るべしです。きもキャラの誕生です。次はいつ出てくるのか、本当に正式なマスコットになったのか分かりません。気まぐれんでありますゆえ!よかったですね、もう見ない方がいいでしょう(笑)では、おやすみなさいまし!小林
獣成るまで② 雑談 2014年02月11日 0 こんにちは。小林です。連投企画が続いております。さて、世はオリンピックによって彩られる、かと思いきや、今大会はなかなか盛り上がりにかけているような印象を受けます。選手の方々からしたら日本の期待という余りにも大きな期待を背負っての競技参加、わたしには耐えられません。その期待に応えて戦い続けている、とりわけ浅田真央選手はかくも強いなあと思って仕方がありません。今回は、フィギュアもそうですが、ジャンプ女子やハーフチューブでもメダルの期待が凄いわけです。明日の朝になりましたら結果が出ていることでしょう。さて、個人的にはオリンピックについては最近ようやくまともに観られてきたかなと思うわけです。子どもの頃は、特別番組などが構成されて観たい番組が観られず、「オリンピックめ!」と思ってしまっていたのです。なんという非国民でしょう。世が世なら憲兵隊に連れ去られて拷問を受けていたことでしょう、そして「ごめんなさい!もう世界名作劇場を観たいなんて思いません」と泣きながら、家なき子レミの絵を踏まされていたことでしょう。くすん、クシャっと。そうです、かつての日曜の午後6時から午後8時までは私にとっては天国のような時間でした。フジテレビでは午後6時の「ちびまる子」を皮切りに「サザエさん」、「キテレツ大百科」、「世界名作劇場」と、2時間もの間、至福の時間を過ごしていたのです。特に「世界名作劇場」については「七つの海のティコ」、「ロミオの青い空」、「名犬ラッシー」、そして最終作の「家なき子レミ」と放映され、毎回録画し、涙を流しながら観ていたものです。なんでしょう、観ていると心がきりきりと軋むような切なさを感じていたのでしょう。かたや苦労を重ねてマイナスからゼロという幸福を得るモノガタリの数々を前に、私はクンクン泣きながらみかんでも食べながらコタツにぬくぬくしながら観ていたものですから、「こんな自分は物語の主人公にはなれないなあ」と思いながら、鼻くそをほじりながら過ごしていたのですね、子ども時代を。当時、それが憲兵隊にバレたなら、きっと穴蔵に放り込まれ、滝行以外は外出も許されず、同様にクンクン泣いていたことでしょう。平和な国に生まれてよかったと思わざるをえません。さてさて、昨日は「獣成るまで」と題して学生の頃から立ち上げまでを綴ってきました。どちらかというとスタッフ関係のことが多くなっていましたので、芝居関係のことも書いていきたいと思います。さて、芝居について、ですが、当時の劇研(明治学院大学演劇研究部)では、基礎をやっていませんでした。今から思うと、ちょっと信じられないなあと思います。入部当初、先輩から「発声とはこうやるのです」と教えてもらい、「んーあー」とやり、また、さながら応援団のように外でもやったのですが、それはその時だけで、実際の稽古が始まると、ストレッチも発声も行わないまま、稽古をやっていたのです。あるいはジャージに着替えずに、ということもありました。あ。別に先輩たちのことを批判しているつもりは全くありません。自分自身もそうしていたのですから、その状態でできる芝居をつくっていったのだと思っています。ちなみに明学には演劇関係の団体が2つありました。1つは戸塚を根城にする私達の劇研で、そしてもう一つは白金を根城とする「明学小劇場」です。かつては1つの団体だったようですが、どうやら劇研が徐々にあらぬ方向に進んでいった際、「やってられぬ!」ということで劇研から抜け出して、毒されない芝居を追及していったのが明学小劇場であった、という逸話を聞いたことがあります。そして、その明学小劇場に所属していたのが、我らが雑賀玲衣でした。そうです、獣の仕業は明学の演劇関係の団体から、それぞれ構成された明学公認の団体だったのです!…うそです!ちょっと大きなことを言いたくなってしまいました、公認ではありません!ひっそりとやっております!ただ、個人的にもつながらいのある大学のご関係者の方は今でも観に来ていただいているのです。それは、誠に嬉しいかぎりですね。はい。さてさて、いつもどおり話が逸れてしまいましたね。そんなアップも行わないまま稽古をやるスタイルは2年くらい続いたと思います。ですが、やがて「正しい姿」で稽古をやるようになったのです。そのスタイルへと変えたのが立夏でした。立夏はある団体へ所属して学んだのだと思います。「劇研やばくね?ww」と。そう映ったことでしょう。かくいう私も、ちゃんとしたアップなどしていなかったので、「アップ?やってるよー」足首グネグネ。「はい、いよー!」この程度でした。信じられません、芝居を舐めているとしか思えません。ごめんなさいバッコスさん。かくして、体系化などに発展させるまでには至ってはいないかも知れませんが、それを後輩に伝え、さらに後輩へと伝わっているのではないかと信じております。さて、劇研のアップはそんな感じでしたが、獣を立ち上げてからは、当然しっかりとやります、と当たり前のことを言っています。そうです、今では当たり前のこと、というのが学生の頃はあまりやっていなかった、そして自分は「んーあー」なんて恥ずかしいよぉという人間だったのです。それがいまや「アップしないと」症候群になるという、このパラドクス。人は変わります。ちなみに、もしかしたら私達の芝居をご覧になっている方々は気になるかも知れませんが、私達の稽古はオープンですので、稽古をご覧になりたい、という場合にはご遠慮なくご連絡くださいまし。さて、現在やっているアップですが、もちろんストレッチや発声など行います。それが全員でやることもあれば各人でやることなど様々です。それは、その場の参加メンバーや空気、によって変わります。そして、あらかたアップを行ったあとに、全員で共通のメソッドをやります。「ニョッキ」というものと「ライン」というものです。どちらも固有の名称だと思いますが、まず「ニョッキ」というのは、下半身は蹲踞~立身を繰り返し、上体は腰を立てたまま腕を…ニョキニョキさせます(笑)すいません分かりませんよね、腕を広げて閉じて、ということをします。これを体内に大気を取り込むように、吸う吐くを、動きに合わせて行います。15分間ずっとやります。このとき、下半身については重心は基本的に下にかけ続けます。汗が滴ります。我らが田澤は、足元に池をつくります。そのうえを歩くと滑り、数多の戦士達が倒されました、トラップですね。続いて「ライン」ですが、これはマクベスの台詞を使います。「明日、また明日また明日と時は小刻みな足取りで一日一日を…」というフレーズですね。長くもなく短くもないですがブレスの位置は全員同じにします。このフレーズは動きの、あるタイミングで発します。動きは、簡潔に言うと、「バチーン」「スッ」「プル」「シャボーン」などです。難解でしょう(笑)ちょっと説明が難しいのですが、連続性のある動きが用意され、ある地点でストップして台詞を発します。動きは、片足で立ったり、アキレス腱を伸ばすような姿勢になったり、蹲踞の姿勢になったり、です。台詞はその際、子音と息を3段階でコントロールして発します。重心やバランスと発声と発話のレベルをコントロールするというものですね。この2点をベースメソッドにして、稽古に入るというのが常です。たまにこれに加えて何かやることもあります。獣は、このようにして稽古をけもけも進めているのであります。ふふふ。なんてマジメなことを書いたのでしょうか。株はウナギのぼりですね。なお、こちらに紹介したメソッドも、これから変わっていくかもしれません。とにもかくにも、未だ発展途上です。まだまだ、頑張ってまいりたいと思います。それでは、次の更新はいつになるかちょっと分かりませんが、けもけもやっていきたいと思います。ありがとうございました。小林
獣成るまで 雑談 2014年02月10日 0 こんにちは。小林です。さて、連投企画が始まりました。しかしどこまで続くか分かりませんが、とにかくのらりくらりと更新していきたいと思います。今日は獣の仕業の「昔」について綴っていきたいと思います。「赤裸々に告白!」というほどではありませんが、私たちの昔、とりわけ許可などがいらない私の昔のことを書いていきます。ただ「昔」と言っても、生まれは、とか、幼稚園の頃のあだ名はバンブーでした、とか、そのような昔ではなく、これはひと時前の昔。10年になりますか。大学に入学し、劇団を立ち上げるまで?のように、トトトトトっと書いていきます。そういえばそうです。劇団以前の状態はあまり書いていませんでした。というのも、やはりこれは劇団のブログであるから、ですね。大学近くの定食屋の話などはしません。もっぱら、劇団以前の部活、でのお話になるようです。でぱ。始まります。「明治学院大学演劇研究部」。ここが私たちの古巣であり、メンバーの出会った場所です。ちなみに、世では文系の中でも明治大学と勘違いされることが多い、明治学院大学。しかし個人的には明治学院大学が好きなんですね。一時期流行ったタワーキャンパスなど作らず、白金の片隅に佇む風情、そして戸塚にあるのに「横浜」と称すキャンパス。戸塚のキャンパスは広い。中央ほどではないのですが、山の上にあるということで、広く、まるで時間が止まっているようなキャンパスライフを過ごすことができたのです。ちなみに明学の戸塚では「登校」ではなく「登山」と呼んでいたのも、一つの愛する文化です。「登山」のルートは二つありました。バス通りをエッチラオッチラ登り、バスに乗った学生らに「やーい貧乏もの」と言われているんじゃないかと錯覚するコースと、デイリーヤマザキの前にある細い道をクネクネ登る途中に畑が広がるも女子大生と会ってドキッとするコースです。私はどちらかと言うと、「貧乏もの」と言われているような錯覚コースを好んで登っていました。そちらの方が景色がよかったのと、人が少ないのがその理由でした。ただ無心に、音楽を聴きながら一歩。一歩。途中でサイダーでも買ってブラブラ登山を楽しんだものです。大学にはたまにリスがいました。実際の山でしか会えないと思っていた山にリス。個人的には、ここは陸の孤島であると同時に最後のオアシスではないかと思った次第です。そうです、そして時間、時間が止まっていました。流れがまったく違うのです。そんな小林は、日がな一日、部室にしけ込み、舞台を作っていたわけですね。そうです、ようやく話が本線に戻りましたが、私は舞台美術を担当していたのです。私たちの所属していた「明治学院大学演劇研究部(以下、劇研)」は当時は人が多くいたわけではなく、ひどいときには10人いるかいないかの状況にもなったものです。そんな中、役者であろうともスタッフは担わなければならず、むしろスタッフをやって役者をやらない方が自然で、役者だけ、というのは当時では難しかったんです。と。「なんで俺がスタッフを!?」などと思ったことはなく、逆にスタッフは好きでした。パネルを作ったり、箱を作ったり、罫書きもベニヤ割りもペンキ塗りも、裁断も、恐らく当代一の腕前になっていたことと思います。ふふふ。やめてください、ただの学生ですって(照)さて、そんな風に皆がスタッフに携わっていました。藤長は小道具(これは現在でも、衣装と兼務のかたちで続けています。頼りになりますね)手塚は照明と音響(とりわけ照明については右に出るものはいなかったです。知識量や度胸とかww)田澤はすべてのスタッフを経験したうえで舞台監督(ドラクエ6の勇者そのものです)凜子は音響(が主だったと思います。)立夏は宣伝美術や照明など、田澤と同じようにすべてのスタッフをあらかた経験したうえで作演となったのです。ちなみに制作が不在ですが、部活では大学の施設利用についての折衝で「事務」という役職があり、それが現在の制作にあたり、こちらは手塚が担当してくれていたのです。そして劇団でも、制作として、その敏腕をバシバシ発揮して、みんなで「んーあーー」ができるのですね。と、このような面々でしたので、「俺たちがいれば公演は打てる!!」という気概がすごかったんですね。ど根性ですね、ゆとり世代になるかどうかの私たちですね。しかし私は完全にゆとっていたんですね。同期が部の主将などになった後、私がその次の代の主将になったんですから。ええ、ある方が仰るには「演劇人の鑑だ!」と言っていました。ええ、恥じ入るばかりです。ええ、両親には頭が上がりません。いえ、上がっても仕方がないので、静かに余暇を過ごしているのみです。ZZZZZZzzzzzzzzzzz!!!!!!!おはようございます!よく寝たので何を書きたかったのか忘れてしまいましたが、そのような環境で獣の骨子が生まれたわけです。ここから、学生生活最後の、劇研公演を行いました。所謂、「卒業公演」というものです。演目は「春に就いて」。立夏のオリジナル作品で、場所は吉祥寺櫂スタジオでした。その頃には劇研の人数は10どころか20にも30にもなるような大人数に膨らんでいたと思います。しかし、それでもスタッフはやりたい私たち、これが集大成だとバコバコとスタッフ作業にも、芝居にも、勤しんだものです。小生が担当した舞台装置は、稼働舞台でした。木材での。未だに思い出すと、ふふふと思ってしまいます。でですね、その稼働舞台は対になっていて、途中でガッチャンコするんですね。勢いが強かったんですね。ガッチャンコするところで勢いあまり、壁に掛けた棚のうえの道具が一気にバラバラ落ちましてね。心の中で「ぎにゃあー!」って叫んだものです。哀れ。しかしそんな事故もすべてどうでもよくなる程、いい公演でした。道具も光も音も、本当に集大成だったなあ、ああ、これで気持ちよく卒業を…「ぎにゃあー!」できなかったんですね。それほど、私にとってもメンバーにとっても、劇研時代の経験は忘れがたく、立夏も書いていることですが、その公演が終わってしばらくしてから、「獣の仕業」が生まれたのです。ファミレスのナプキンに、獣ちゃんが命を吹きこまれたのです。その後、第一回公演「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」を劇研の後輩らも誘って上演し、そして、その公演を観に来てくれた出演者の後輩・雑賀玲衣が新しい風として獣に舞い込んできました。その旋風、凄まじいほどでした。その旋風、巻き込まれ…たくありません!(おや?また鼻がジョニーデップのように伸び伸び太…)第二回は小林の作演「女は鎖、男は愛を潰す」で雑賀が初出演し、そして舞台美術としての弟子?後輩も出演して、また一歩進んだ獣ちゃん。次は雷魚の背に乗り、劇研から一歩飛び出したように海へ、暗闇坂へ、竜胆の花が咲いているのを尻目に、魚は淵の底から飛龍となって、昭和の世界に舞い込みます。周りを見れば流石は昭和という昔、劇研の面々が大勢いるではないか、と。どうやら、こうした魚や龍に姿を移した「劇研」という乗り物は、この時、一旦下りたのだと思います。そうして、2012年の3月11日、私たちは自分の足で、寄る辺なく歩き出したのだろうと思います。せかいでいちばんきれいなもの「today」と題される世界を踏みしめるのでした。魚に乗っていたとき聞こえたでしょう、「白」「黒」「牙の音」、騎馬、に乗る将軍、オセロ、あなた、は初めての乗り物でない異形、鬼、鬼、鬼、角の生えた鬼となり、緑の目玉の夜の淵に光が入って、月が高く高く、登って落ちていく落ちていったのがまさに昨秋。9月のことでした。秋が終わり、冬のいま、獣はどのように毛色が変わるのか、どのような衣をまとうのでしょうか。それは、誰にも分かりません。獣ちゃんなら知っているでしょう。しかし、獣ちゃんは「ヌンヌン」しか言えません。困ったものです。ヌンヌン小林でした。拝
2014年が始まっております。今年も宜しくお願いいたします。 雑談 2014年01月17日 0 こんにちは。小林です。前回の更新から、まるまる1か月が過ぎてしまいました。新年開けましておめでとうございます。本年も、獣の仕業をよろしくお願いいたします。さて、今年は午年ですね。新年のテレビを観ておりまして、「午年にちなんで…」ということで数多のうまうま方々が引っ張り出されておりました。昨年などは「暇やなあ。しっぽでも追い回したろ」と一人ごち、自分のしっぽを追い回してぐるぐる回り出していた彼らは、たまぁに「お。客やな。ほれ、乗ってみ?せやけどな、後ろに回ったらあかんで。蹴っ飛ばしけつかるねんで!」と言いながら、子どもやらを乗せて、牧場をカッポカッポ闊歩していたのですね。それが今年になって、「さあ、そんな飼葉くさい所から出てくるんです。あなたの年ですよ」と引っ張り出され、馬どもは「お?なんだか最近は人気が出てきたようやな。これなら、明日から【UMA48-21×0+1】というユニットを立ち上げても売れるやろ。これでワイも、芸能人や!」と勘違いをしているに違いありません。こんにちは、丑年の小林です。そうです、私は丑年でして、小さいころから牛乳を毎日必ず飲み「背よ伸びろ伸びろ」と思っていたものです。ですがどうでしょう、待てど暮らせど、伸び悩み、そのまま現在に至ります。よくありますのが、170cmないのに、168cmやら169cmの方々が四捨五入して、「おれっち170cmけつかるねん」と言うことがありますが、天邪鬼のわたくし、堂々と申し上げましょう。「ぼくは168.8cmけつかるねん!」と。ところで、「けつかるねん」とはなんでしょうか。そして「おまんがな」とはなんでしょうか。それだけを抜粋しますと、とてもこの世のものとは思えません。これが、別の言葉に連結されますと、然るべき意味へと昇華できるのですね。日本語とは面白いですね、是非ともこちらも世界遺産になってもらいたいものです。そうですね、世界遺産といえば、日本食が世界遺産になりましたね。嬉しいですね、わたしも日本食が大好きです。でもハンバーガーも好きですね。なんでも好きですね、食べ物は全般的に、です。どうもこんにちは、嫌いな食べ物がない小林です。小学生の頃は、空腹に耐え切れず、ノートの端を食べていたものです。ええ。ははは!さてさて、2014年も獣はケモケモ活動をモリモリ進めて参ります。今年は本公演を2回行おうか、という予定で進めています。また詳細などが決まりましたら、こちらのHPやその他の媒体にて告知をさせていただきます。今年は午年ですから、獣の年ですね。いえいえ、大概の干支は獣です。そんな自己否定から始まりました2014年最初の更新でございました。改めまして、本年も、宜しくお願い申し上げます。皆様ならびにお世話になった皆様の、今後のご多幸お祈りしております。拝 小林龍二