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獣の仕業のしわざ

劇団獣の仕業のブログです。 日々の思うこと、 稽古場日誌など。

獣成るまで

こんにちは。小林です。

さて、連投企画が始まりました。
しかしどこまで続くか分かりませんが、とにかくのらりくらりと更新していきたいと思います。

今日は獣の仕業の「昔」について綴っていきたいと思います。
「赤裸々に告白!」というほどではありませんが、私たちの昔、とりわけ許可などがいらない私の昔のことを書いていきます。ただ「昔」と言っても、生まれは、とか、幼稚園の頃のあだ名はバンブーでした、とか、そのような昔ではなく、これはひと時前の昔。10年になりますか。大学に入学し、劇団を立ち上げるまで?のように、トトトトトっと書いていきます。

そういえばそうです。劇団以前の状態はあまり書いていませんでした。というのも、やはりこれは劇団のブログであるから、ですね。大学近くの定食屋の話などはしません。もっぱら、劇団以前の部活、でのお話になるようです。

でぱ。始まります。


「明治学院大学演劇研究部」。ここが私たちの古巣であり、メンバーの出会った場所です。
ちなみに、世では文系の中でも明治大学と勘違いされることが多い、明治学院大学。しかし個人的には明治学院大学が好きなんですね。一時期流行ったタワーキャンパスなど作らず、白金の片隅に佇む風情、そして戸塚にあるのに「横浜」と称すキャンパス。戸塚のキャンパスは広い。中央ほどではないのですが、山の上にあるということで、広く、まるで時間が止まっているようなキャンパスライフを過ごすことができたのです。ちなみに明学の戸塚では「登校」ではなく「登山」と呼んでいたのも、一つの愛する文化です。「登山」のルートは二つありました。バス通りをエッチラオッチラ登り、バスに乗った学生らに「やーい貧乏もの」と言われているんじゃないかと錯覚するコースと、デイリーヤマザキの前にある細い道をクネクネ登る途中に畑が広がるも女子大生と会ってドキッとするコースです。私はどちらかと言うと、「貧乏もの」と言われているような錯覚コースを好んで登っていました。そちらの方が景色がよかったのと、人が少ないのがその理由でした。ただ無心に、音楽を聴きながら一歩。一歩。途中でサイダーでも買ってブラブラ登山を楽しんだものです。

大学にはたまにリスがいました。実際の山でしか会えないと思っていた山にリス。個人的には、ここは陸の孤島であると同時に最後のオアシスではないかと思った次第です。そうです、そして時間、時間が止まっていました。流れがまったく違うのです。そんな小林は、日がな一日、部室にしけ込み、舞台を作っていたわけですね。

そうです、ようやく話が本線に戻りましたが、私は舞台美術を担当していたのです。
私たちの所属していた「明治学院大学演劇研究部(以下、劇研)」は当時は人が多くいたわけではなく、ひどいときには10人いるかいないかの状況にもなったものです。そんな中、役者であろうともスタッフは担わなければならず、むしろスタッフをやって役者をやらない方が自然で、役者だけ、というのは当時では難しかったんです。
と。「なんで俺がスタッフを!?」などと思ったことはなく、逆にスタッフは好きでした。パネルを作ったり、箱を作ったり、罫書きもベニヤ割りもペンキ塗りも、裁断も、恐らく当代一の腕前になっていたことと思います。ふふふ。やめてください、ただの学生ですって(照)

さて、そんな風に皆がスタッフに携わっていました。
藤長は小道具(これは現在でも、衣装と兼務のかたちで続けています。頼りになりますね)
手塚は照明と音響(とりわけ照明については右に出るものはいなかったです。知識量や度胸とかww)
田澤はすべてのスタッフを経験したうえで舞台監督(ドラクエ6の勇者そのものです)
凜子は音響(が主だったと思います。)
立夏は宣伝美術や照明など、田澤と同じようにすべてのスタッフをあらかた経験したうえで作演となったのです。

ちなみに制作が不在ですが、部活では大学の施設利用についての折衝で「事務」という役職があり、それが現在の制作にあたり、こちらは手塚が担当してくれていたのです。そして劇団でも、制作として、その敏腕をバシバシ発揮して、みんなで「んーあーー」ができるのですね。

と、このような面々でしたので、「俺たちがいれば公演は打てる!!」という気概がすごかったんですね。ど根性ですね、ゆとり世代になるかどうかの私たちですね。しかし私は完全にゆとっていたんですね。同期が部の主将などになった後、私がその次の代の主将になったんですから。


ええ、ある方が仰るには「演劇人の鑑だ!」と言っていました。
ええ、恥じ入るばかりです。
ええ、両親には頭が上がりません。
いえ、上がっても仕方がないので、静かに余暇を過ごしているのみです。


ZZZZZZzzzzzzzzzzz!!!!!!!



おはようございます!
よく寝たので何を書きたかったのか忘れてしまいましたが、そのような環境で獣の骨子が生まれたわけです。ここから、学生生活最後の、劇研公演を行いました。所謂、「卒業公演」というものです。演目は「春に就いて」。立夏のオリジナル作品で、場所は吉祥寺櫂スタジオでした。
その頃には劇研の人数は10どころか20にも30にもなるような大人数に膨らんでいたと思います。しかし、それでもスタッフはやりたい私たち、これが集大成だとバコバコとスタッフ作業にも、芝居にも、勤しんだものです。小生が担当した舞台装置は、稼働舞台でした。木材での。未だに思い出すと、ふふふと思ってしまいます。でですね、その稼働舞台は対になっていて、途中でガッチャンコするんですね。勢いが強かったんですね。ガッチャンコするところで勢いあまり、壁に掛けた棚のうえの道具が
一気にバラバラ落ちましてね。心の中で「ぎにゃあー!」って叫んだものです。

哀れ。しかしそんな事故もすべてどうでもよくなる程、いい公演でした。
道具も光も音も、本当に集大成だったなあ、ああ、これで気持ちよく卒業を…「ぎにゃあー!」できなかったんですね。


それほど、私にとってもメンバーにとっても、劇研時代の経験は忘れがたく、立夏も書いていることですが、その公演が終わってしばらくしてから、「獣の仕業」が生まれたのです。ファミレスのナプキンに、獣ちゃんが命を吹きこまれたのです。

その後、第一回公演「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」を劇研の後輩らも誘って上演し、そして、その公演を観に来てくれた出演者の後輩・雑賀玲衣が新しい風として獣に舞い込んできました。その旋風、凄まじいほどでした。その旋風、巻き込まれ…たくありません!(おや?また鼻がジョニーデップのように伸び伸び太…)

第二回は小林の作演「女は鎖、男は愛を潰す」で雑賀が初出演し、そして舞台美術としての弟子?後輩も出演して、また一歩進んだ獣ちゃん。次は雷魚の背に乗り、劇研から一歩飛び出したように海へ、暗闇坂へ、竜胆の花が咲いているのを尻目に、魚は淵の底から飛龍となって、昭和の世界に舞い込みます。周りを見れば流石は昭和という昔、劇研の面々が大勢いるではないか、と。どうやら、こうした魚や龍に姿を移した「劇研」という乗り物は、この時、一旦下りたのだと思います。そうして、2012年の3月11日、私たちは自分の足で、寄る辺なく歩き出したのだろうと思います。せかいでいちばんきれいなもの「today」と題される世界を踏みしめるのでした。

魚に乗っていたとき聞こえたでしょう、「白」「黒」「牙の音」、騎馬、に乗る将軍、オセロ、あなた、は初めての乗り物でない異形、鬼、鬼、鬼、角の生えた鬼となり、緑の目玉の夜の淵に光が入って、月が高く高く、登って落ちていく落ちていったのがまさに昨秋。9月のことでした。


秋が終わり、冬のいま、獣はどのように毛色が変わるのか、どのような衣をまとうのでしょうか。
それは、誰にも分かりません。獣ちゃんなら知っているでしょう。

しかし、獣ちゃんは「ヌンヌン」しか言えません。
困ったものです。



ヌンヌン



小林でした。


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