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獣の仕業のしわざ

劇団獣の仕業のブログです。 日々の思うこと、 稽古場日誌など。

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第九回公演「ヴェニスの商人」[Kingdom Come] 出演者情報解禁!


ヴェニスの商人の仮チラシ

第九回公演「ヴェニスの商人」[Kingdom Come] 出演者


・小林龍二
・凛子
・藤長由佳 (以上獣の仕業)
・宮岡俊介
・きえる

以上五名でお届けします。
以降も詳細情報が決まり次第、こちらのブログとHP、メンバーのTwitterなどでお知らせします。

いよいよ先週より稽古も開始しました。
稽古の様子はこちらのブログで不定期更新でご報告いたしますのでお楽しみに。
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第九回公演「ヴェニスの商人」稽古開始前夜

こんにちは。小林です。
明日から、いよいよ第九回公演「ヴェニスの商人」の稽古が始まります。
「いよいよ」という割りには、前回公演から近しいものです。

突然ですが、シェイクスピアは不変であり、普遍に存在していくものなんだろうと、
つとに思うようになっております。

私は非常に怠惰で不勉強な人間なものだから、知らないことが多すぎます。
それでもまた向かい合おうとしてしまいます。

役者は向かい合うということが必要です。
前回公演では、特にそれを思ったものです。
愛情も友情も、真実も、夢も向かい合って形成されました。

向かい合うということは、ふつう一般に生きる世界のなか、
誰にとっても必要なことだと思います。
それは単純、人と人とが向かい合う、
生きていくうえで逃げずに向かい合い、
理解をして知って、また見る見直す。

向かい合いたいから向かい合って、
泣いても、苦しくても、例え今は笑っていても、
いつか泣くことを怖れたり、なくなることに不安になったり、
まだ来ない世界、不確かな未来があります。
それは、自分の世界や誰かの世界だったり、
至極不安定で崩れそうな世界のうえで私たちは、
ひとり、ひとりが自分の道を一歩、一歩と生きています。

私たちは偶然に出逢い、獣の仕業が生まれました。
苦しかったことも楽しかったことも、
何もかも「ある」ことを共にしてきたのも偶然。

立夏、田澤、手塚、藤長、凜子がそこにいたのも偶然。
そしてそこに雑賀がぴょんっと入ってきたのも、偶然。
でも、皆が皆、変わらず所属しているのは?

今ここは、また会える必然の場所です。
いつでも帰れる、いつでも戻れるそんな場所。
私たちが芝居をすることも、もう必然に近いものになっています。
しかし必然は、まだ脆弱さがあるように思うのです。

不変は、決心と覚悟と責任で成ります。

不変かつ普遍に存在するシェイクスピア、不変で普遍にいようとする私がいる劇団。
また邂逅します。これで三回目になります。

また向かい合います。
新しい本に生きる人。
新しい今を生きる人。
新しい場所で
新しく生まれ変われるように、
努々の努力を弛まず
またひとつの中継地にたどり着けますように。
ひとりひとりの一歩一歩がゴールにたどり着きますように。


祈り

「ヴェニスの商人」はじまります。

「空騒ぎ」という物語に寄せて


ご来場ありがとうございました。


立夏です。

上演後記は小林さんにお任せしてしまいましたが、改めましてご来場・ご声援頂いたすべての皆様に深く感謝申し上げます。
今までの獣の仕業で最大動員となりまして、皆様お暑い中お越しくださり誠にありがとうございます。

この記事では上演後記に代えて、「空騒ぎ」を上演するに至った作家立夏個人の経緯のようなものを書いてみようと思います。
演出側のことはここでは書きませんので悪しからずです。




今回は獣の仕業初の「喜劇」の挑戦となりました。
この辺りは前々回の小林さんの「上演後記」が更に展開しています。よろしければ。

特に、旗揚げから第三回までは私はひたすら、どれだけ悲惨になれるか・どれだけ哀しい風景を創造できるか を考えていました。物語はすべて私の作り上げた悲しい気持ちだけで編まれていました。

なぜ心境が変わったのかは「空騒ぎ」後記から外れてしまうので割愛しますが、その時私は「フィクション」を書くことをやめてみようと思いました。
見栄を張らず、誇張せず、できないことも・できたことも・分からないこともそのままにしよう、

私は、無意識にフィクションの力を用いて昔に出来た傷口を引っかき回してどうにか治さないようにしていました。それだけが罪滅ぼしだと思っていたからです。
そしてやがて、傷口は治すべきだと思いました。
舞台を、化膿した傷を見せびらかす場所にしかねない行為はやめようと。
(決してそういったエンジンで書かれる作品自体は否定しません。現在の私がそれを選択しないというだけです)

悲しみに打ち拉がれたり、怒りに我を忘れたり、絶望のあまり身を投げたり、
そういったものが物語の底辺を支配していなくても、今なら心震わせるものが出来るんじゃないか─
2年ほど前から薄々思っていたけれど「まだ早い」「それは今じゃない」と踏み切れないでいました。

ですから今回の「空騒ぎ」で書かれたたくさんの恋の詩、役者たちが見せてくれた歓喜の涙、そして太陽のような笑顔─ それらは私個人に関して言えば念願の治癒であり、団体としては数年前から辿り着きたかったひとつのゴールです。
ここから先、獣の仕業はまた新しい境地を探していこうと思います。
※「ゴール」とは書きましたが、獣の仕業は今後喜劇専門劇団に路線変更する予定も、かといって「空騒ぎ」をイレギュラ公演にするつもりもありません。「前と同じ感じの公演は打たない」がモットーの獣の仕業です。


空騒ぎの物語の中で、登場人物たちもたくさんの傷を負いました。
悲劇が傷が付いていく過程の物語であるならば、喜劇はその傷を治していく過程の物語です。

多さ深さは違えど、傷のない人間は、恐らくいないでしょう。
傷付けた事のない人も、傷付けられた事のない人も恐らく。

もし「空騒ぎ」を観て下さった皆様に、最後空に向かって手を伸ばしていた彼らのハッピーエンドが少しでも勇気を与えることができていたら、これ以上はありません。

(もしくは「笑ってるのが一番だね」とかでもいいです)


それでは改めましてすべての方に感謝を。
次回は11月pit北/区域でお会いしましょう。


立夏


上演後記:第八回から第九回へ

こんにちは。小林です。
第八回公演「空騒ぎ」が終わり、早いもので、既に10日近くが経ちました。

今年の獣の仕業は、いつになくハイペースです。
今週末から、第九回公演「ヴェニスの商人」が始まります。

「空騒ぎ」の余韻、それは私の中でまだ残っています。
あの男だらけの稽古場や、婚礼のシーンでのダンス?やら、一個一個の台詞の数々、伝えるもの、伝えられたもの、吐きそうなほどに緊張した客入れがあったこと(既に舞台上にいましたので、もちろん吐きませんでしたがw)、そして、なんというかトビトとして居たという感覚それ自体が、まだ私の中に息づいて残っています。それは確実な感覚です。

獣の仕業は、今まで公演が終わると1か月以上のブランクを以て次回公演に向かうことが多かったのですが、今回はブランクは1週間、それも、HPでご案内している通り、その1週間ですらワークショップがあった訳です。

幸せ、だと感じています。そして、どんどん痩せていくなと思っています。来年の今頃、私はきっとプレーリードッグのように小さな存在に成り果て、この世界と、それでも関係を持とうとすることでしょう。
そうです、さすれば、人気者になって、あんなことやこんなこと……


こんにちは!小林です!
さて、今週末から、また新しい出会いが始まります。
それは、もちろん新しい役との出会いであると同時に、獣に出てくださる方々、
獣を観てくださって出たいと思って決意・してくださった方、
あるいは獣という劇団を知らないまま、それでも参加を決意してくださった方。

私たちは、また新しく出会います。
そして、出演してくださる方々は、獣という劇団を、獣の芝居というものに、そうして新しく出会うことになります。

「空騒ぎ」で出会うことができた皆さん、そして「ヴェニスの商人」で新しく出会う皆さん。
それは、なんだかバトンが渡されたように。連綿と、続いていくようでだから、幸せに思うのです。
これは、今回がブランクがほぼないということで思う、新しい気持ちのようです。

まだ、出演者についての詳細はまだ発表できません。ですが、獣からも、また懐かしい顔が見られることと思います。…私は、自分のバトンを離すつもりはありません!こ、これは俺のだ!笑


獣の仕業も、もう6歳になりました。もう、小学生に入学するくらいになりました。
お越しくださる皆様、出演してくださる皆様、支えてくださるスタッフの皆様、このブログを読んでくださる皆様、本当に、いつもありがとうございます。

成人式には是非とも来てください。

「空騒ぎ」上演後記

こんにちは。小林です。

獣の仕業 第八回公演「空騒ぎ」、おかげさまをもちまして、無事に終演いたしました。
お忙しい中、またお足元の悪い中、ご来場くださいました皆様、本当に、本当に、ありがとうございました!
また、ご来場いただけなくてもその旨、ご連絡をしてくださった皆様、ご検討いただいた皆様も、ありがとうございました。

今回、上演後記ということで、のっぺりほわほわと書いてまいります。
獣の仕業は、今までとりわけ悲劇を扱ってきた劇団です。
それは、立夏の中でそう決めていたという訳ではないと思うのですが、そのすべてが悲劇に分類されるもの、いわんや、ただ「暗い」だったのかも知れません。

2008年秋の第一回「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」
これは、なくなっていく自分の知る街と壊れてしまった友情を探しにいく、そんな物語、ラストが必ずしも幸福かと問われても答えられない、瓦礫に埋まった小さな世界に小さな花が咲く、そんな印象を私は持っています。

2009年初夏の第二回「女は鎖、男は愛を潰す」
これは私が書いて演出した作品ではありますが、やはり悲劇に分類されるのでしょう。
男に支えられる「女」が、金という俗物に寄り「女」というジェンダーをなくして腐って溶ける。
女の母は、新しい子を宿して、女は母の栄養になって「私はあなたのために生まれてきたのかもしれない」そう言って目を潰されます。・・・なんちゅう話だろうか(笑)
他人がいる自分と世間の中にいる自分と、生きる覚悟と自立と。当時の自分の、曖昧な立場でも考えたのでしょうか。

2010年秋の第三回「雷魚、青街灯、暗闇坂、あるいはうしなわれたものたち」
これは獣史上、最恐の悪夢です。暗い坂へ転がり落ちて青い光でさえ小さくなっていく。家族、親友という最も近しく狭い世界で起きる屈折した愛と憎しみと、愛、愛、愛が螺旋する物語。何が現実なのか誰の現実なのか。殺した親友が魚になってよみがえって、妹に会いに来る。
私も正直まだよく分かっていません。この作品は、これだけで、起きていることだけが真実の物語なのだろう、と。とにもかくにも、悲劇というより、悪夢です。

2011年夏の第四回「飛龍伝」
これはご存じ、つかこうへいの既成脚本に取り組みました。
脚本は2003年ヴァージョンで、セリフはそのままに獣の特異な動きや立夏の演出によって、つかこうへい劇団のポップさはほぼすべてなくして、暗く、閉め切った部屋に西日が差しこむような、世界の中、そう、それは部屋のような場所でしょう。その狭小な部屋、のような場所で、全共闘と機動隊という社会の中にある二人が、愛をぶつけ合う、罵倒ですらすべて愛の言葉。誰よりも強く、何よりも大きい愛で、山崎一平は美智子を警棒で殴り殺します。愛した妻を自らで殺したことで狂った山崎は、正気に戻ったかのように、美智子に会い、死にます。…まあ喜劇ではないでしょう。

ふわあ、長くなってきましたね。次でいったん締めましょう。
2012年春(2012.03.10~03.11)第五回「せかいでいちばんきれいなものに」
震災から1年後に上演した話。「彼」を探す物語。「彼」はなくなってしまった、壊れてしまった場所へ向かった。彼がどこにいったのか、その足跡を、ただ断片的に映す。彼にすがる女、彼に抱かれる女、彼を包む女、彼を診た女、そして彼を探す女。誰も皆、「彼」を知り、彼を寄る辺にする。しかし、彼の寄る辺は?春が来た桜の樹の下、彼は見つけられる。ただ、弔い眠る。

と、ここまで書いてきました。
このあとも、第六回「オセロ」に番外「助ける」、第七回「群集~(再演)」というように、やってきました。ポンっと思うと、もしかしたらだんだん明るくなってきたような気がします。
前向き、と言いますか。しかしそれは「希望がある」であって、確実性をもった「幸せ」ではありませんでした。

ここで、話を一気に戻します。
「空騒ぎ」は喜劇でした。ですがしかし、「ここ、悲劇でしょ」というところがありました。
クロハが嘆くところ、トビトと紅葉のシーン。今でしたら、トビトの「さようなら」はすべて、いわゆる死亡フラグです。しかし、そうはならなかった。それは飽くまでこの物語が喜劇であったからです。
しかしそんな中、コンラッドとデイジーだけが、最終的な場面で喜劇の様相を呈していなかったのは、おそらく立夏の意思があったのではないかと思います。400年前には、あのシーンは勧善懲悪的な「悪い奴が捕まった!よかったー!」という風になっていたのかも知れません。立夏は、その、今ある脚本において、人間がどうなるかということを考えて自然そうなったのかも知れません。
私は聞いていないので、真実は分かりません、が。

コインの裏表のように、喜劇と悲劇は背中合わせのもの、そのようなことを言っていました。
「空騒ぎ」は喜劇です。ただ、しかしそこには人ひとり、役者ひとり、それが立っているだけです。
「獣の仕業」らしい喜劇になっていたなら幸いです。
そしてまた、皆様の心の中に、少しでもほっこりと残り、コインが回って明滅するように、何かの折りに思い出していただけるとしたら、一同幸せに思います。

獣の仕業、次回は11月1日~3日、「ヴェニスの商人」を上演します。
また劇場にてお会いできることを楽しみにしております。


改めまして、誠に、ありがとうございました。


拝 小林龍二