脚本・演出作法その2: 劇場入り そのとき演出家はどうすればいいのか 脚本・演出作法 2014年08月21日 0 「舞台設置ですか!? わたし、てつだいますよ!!」(大きな声で言おう!) いつもご覧頂きありがとうございます。立夏です。 今年からこっそりと始めた不定期更新記事「脚本・演出作法」ですが前回その1の更新が4月でした。 その1の記事の中で私、こんな風に書いておりました。 来週の稽古に向けて脚本をがすがすと書いているのですが、脚本を書いているとTwitterやブログなどのそれ以外の媒体の投稿量・頻度も増えてしまう事ってよくありませんか? そうなんですよ、今も「ヴェニスの商人」を書いているのですよ・・・、文章の息抜きに文章を書くのが私です。多分そういう人は多いと思うんですが、「息抜きに掃除をするようなタイプだったら今頃私の部屋はキラキラのはずなのになあ」と地獄のような部屋を眺めたりします(本当はそこそこ綺麗ですけど) さて、体系立った技術や為になるような論述はなにひとつ書かない脚本・演出作法、 精神論や偏屈な思い込みばかりの脚本・演出作法 その代わりと言ってはなんですが、私自身や周りの方の実体験も含めつつで、いわゆる紋切り型のWebで検索すると同じような事を書いてある記事が10件20件出てくるような正統TIPSじゃない、かつ学校で教わるような基本のキの字もないような偏りのある邪道的独り言でもって、芝居を作る方や芝居を観られる方や、これから芝居をやってみようかなと言う人達の心をムズ痒くしていきたい所存です。 第二回目のテーマは「演出家は劇場で何をすればいいのか」 この一文だけでウンウンと頷いた貴方は演出家さんですかね? 「やることいっぱいあるだろうが! 滅びろ!」とチョップをしてきた貴方はスタッフさんですかね? 演出家って何してるの? と思った貴方はお客様でしょうか? 「そういえばアイツなにしてんだっけ」と思った貴方は役者さんかもしれませんね。 今回の記事の大前提として明言しておきますが、演出家は、劇場に入ったらやることがありません。 「マジかよ」「嘘吐け!」とか「やることあるだろうが!」と言うお声も聞こえてくるようですが、ありません。 正確に言えば頼まれ事はありますし、やらなければいけない重要なことも山ほどあります。演出が劇場入りのときに不要と言う事はありません。そもそも「劇場入り」自体が演劇製作の中では最も時間に追われている場ですからね。 ただそんな火事場で演出家は「自分きっかけで進められる仕事 および 単独でできる仕事が殆どない」のです。 照明や音響の確認作業は、照明・音響責任者合わせで進みます。役者の準備も役者本人がします。受付は受付スタッフさんがいます。それぞれの役割を存分に発揮してくださいます。 「本番の舞台は役者のものだ」と言うような言葉を皆さんは聞いたことがあるでしょうか。これは真実です。正しくは「役者と、照明・音響現場スタッフのもの」だと思いますが、舞台表現はそのときやったものがすべてです。演出家は本番の舞台にリアルタイムで関わる事はできません。幕が開けば、もういよいよ演出は無力で、口出しはできません※。本番が始まる瞬間に・早ければ劇場入りの時点で、演出家の職務は全うされているのです。 これこそが演出家が劇場入りしたらやる事がなくなる一番の理由だと思います。 ※ 私はいつも役者が裏でコッソリ口裏を合わせていて、本番で急に阿波踊りを始めたらどうしようと毎公演考えています。 さて、そんな「演出家」とは何でしょう。映画で言うディレクター、サッカーで言う監督、作品単位での最高責任者、雑用の頂点、公の下僕、王様、みんなのお父さん、お世話係? どう表現するかは座組によって様々でやることや立場も千変万化です。。 今回の記事では、架空の座組での「劇場での演出家の振舞い方」をご紹介します。 「演出家って劇場で何してるの?」はい、こんなことをしています。そのとき、演出家はどうするのか ※ 以下に記述してある内容はフィクションです。記述にはかなりの誇張・虚偽があります。 どうか真に受けず、適当に読んで下さい。 「あるある!」と思ってくれた方がいたとしても、これはコミック記事です。 「おはようございます!」 某日 AM10:00 某劇場に東京の劇団 「誰の仕業」がやってきました。彼らは明日から二日間本番、前日である今日は「仕込み」と言われる本番に向けた準備日です。 照明チームの皆様は車から照明を搬入するや否や釣り込み図を囲んで打ち合わせ。音響さんは黙々とスピーカーを天井上のバトンに設置しています。 照明仕込みが終わるのが14:00、その後照明の照らす位置の調整や音響の音量レベルチェックの後、照明・音響の本番でのキューを確認するのが16:00、最後にリハーサルを行うというのが本日のスケジュール。役者は午後から劇場入りです。 さあ早速演出家としての仕事は照明仕込みが終わる14:00までありません。どうする演出家!その1: 別のスタッフの振りをする すると演出家、鞄から大量の紙束を取り出しました。パンフレットです。 お客様に受付でお渡ししたり座席の上に置いてある「当日パンフレット」と呼ばれるものです。 大きさは座組によって様々ですが、A4に印刷したものを半分に折って中にアンケートやチラシを挟むのが一般的です。つまりパンフレットは印刷した後折らなければパンフレットとしての役割をなさないのです。 演出家、ロビーの隅っこでセコセコと折り始めました。後ろに居る制作さんが「私やりますよ?」と言っています。「大丈夫、大丈夫。私やるから~」と返す演出家。いいのです。これで30分は仕事があるのです。 このように劇場では「誰がやっても構わないし最優先でもないが誰かが必ずやらなければならない仕事」を率先してやる演出家の姿が良く見受けられます。 A4の紙を折るのは技術的には誰でもできることですが、その為後回しになりがちです。そんな仕事は演出家に任せておきましょう。 知識や技術がある演出家の場合には音響スタッフや衣装・小道具スタッフの手伝いをする事も可能です。おや、隣の劇場では照明設置をしている演出家がいるようです。楽しそうですね。彼はしばらく居場所に困らないでしょう。手伝う内容に相応する技術があれば本職の方に迷惑を掛ける事もありません。 彼らは決して100%の善意でやっているわけではありません。自分の居場所を確保する為にやっているのです。他のスタッフの振りをすることで演出家は「仕事をしている人」でいられるのです。 おや、「誰の仕業」の演出家、パンフレットを折り終わってしまいました。 すると劇場に霧吹きを始めました。劇場は乾燥することが多いので霧吹きで湿度をあげて役者達の喉を守るのです。ただ、役者の入りは午後ですよ? まだ早いんじゃないですか? ちょっと吹き過ぎじゃないですか?その2: 買出しをする お昼の時間が近づいてきました。演出家が財布を持って立ち上がりました。 「私コンビニ行くけど、何か買ってきて欲しいものある人いますか?」 出ました伝家の宝刀、「何か買ってきて欲しいものある人いますか」です。 これは「私は自分の都合でコンビニに行きたいのだがみんなの欲しいものを一緒に買いにいくことによって自分は人のために働いていると言う正当性をください」と言うお願いをするときに使う言葉です。タイミングがよければ何人かの人がお使いを頼んでくれます。 皆さんが演劇関係者の方でこれを言われた側の立場になった場合、欲しいものが決まっているのであれば遠慮なく頼んでください。ものづくりは助け合いです。「あ、じゃあお願い」。この一言が彼らの心を救うのです。 ちなみにこの技を使ったとき「適当にいい感じのお昼買って来て」と言われることがありますので注意してください。これは「説明はしないが私の好みをテレパシーで把握して唯一絶対の製品を購入してきなさい」と言う愛の鞭です。本当に適当なものを買ってきてはいけません。まして「全部自分の好きなものを買って何を選択されても自分が好きなものを食べられるようにしよう」などとあざとい事をしてはいけません。その場合に備えて座組の食べ物の好み、一回の昼食に払える金額の上限、摂取したいカロリー量は事前に把握しておきましょう。日頃からSNSストーキングを怠らないで下さい。その3: 次の公演の脚本を書く・演出プランを作成する お昼も食べ終わって13:00。14:00まではまだ若干の時間があります。しかし振りをできるスタッフ業務もなくなってしまいました。役者は14:00からの照明合わせ、その後のキュー確認に向けてアップを始めました。ひとりぼっちです。 こういうときの為にノートパソコンを持ってきてください。次の公演の脚本を書きましょう。「私は演出専門で脚本は書かない」と言う方は演出プランを考えてください。 ノートはできればMacBookAirを用意しましょう。格好いい感じが出せます。 ただ、格好いいからと言って調子に乗って駅のカフェに行ってはいけません。劇場内でやらなければ意味がないのです。「仕事をしている」と言う事を見せつけなければカフェでお茶をしているのと同義です。「俺は俺にしかできないことをしている」と全身全霊でアピールしてください。足を組んでください。Enterキーはやや強めに叩きましょう。気付いてもらえます。気付かれたからといって何が起こるわけでもありませんが。 また、客席設営をする前には速やかに撤退してください。その4: いっそ、何もしない。それから、 客席設営が終わりました。13:50。まもなく照明の準備も出来上がります。 演出家は出来上がったばかりの客席の最前列に座って舞台をじっと眺めています。 さあその目は何を考えているのでしょう? 分かりません。 すれ違った役者達や、操作室にいる照明・音響スタッフさんが時折演出家に何か声をかけています。質問をしているようです。回答をする演出家。 多分、演出家の仕事の一部は「何もしないこと」そのものなのだと思います。 ただそこにいて、何かが起これば考えて、回答する・選択する。その幾つかの選択はどうやら演出家にしかできません。なぜかというと、周りも、演出家本人も、そう思っているからです。 本番は役者と現場スタッフのものです。これは真実です。ですが、本番を背負う役者やスタッフの不安をひとつでも少なくできるように、お客様にもっと楽しんで・ワクワクしてもらるように、幕が開くまでのあとわずかの時間、演出家は舞台を見つめます。 時に役者の目線で、時にスタッフの視線で、最後に、お客様になりきって。演出家は何もしないでただ見ています。 もしかしたら演出家を志してこれから初めて舞台に立つ演出家さんがこれを読んでいるかもしれません。もしかしたらあまりの手持ち無沙汰にオロオロしたり、「何かしなきゃ」と慌ててしまうかもしれません。 でも大丈夫。あなたの視線は、あなたにしかないものです。 あなたが落ち着いていれば、座組も安心して貴方にいろいろお願いしたり、質問したりできます。 さあ、幕が開きます。素晴らしい舞台を!! どっちにしろ、この後そこそこ忙しいですよ!! PR
脚本・演出作法その1:独断と偏見の作家タイプ別分類 脚本・演出作法 2014年04月18日 0 (まめ芝。その伍「助ける」の上演台本の1ページ目) いつもご覧いただきありがとうございます。 立夏です。 来週の稽古に向けて脚本をがすがすと書いているのですが、脚本を書いているとTwitterやブログなどのそれ以外の媒体の投稿量・頻度も増えてしまう事ってよくありませんか? 自分が正にそれで5月の半ばくらいまではこの状態がしばらく続くのではなかろうかと思います。 さて今回から、自分がブログに書かせて頂いている脚本・演出のヨモヤマを、思い切って「脚本・演出作法」と名付けて不定期連載にしてみようかと思います…。 最初は「脚本・演出技法」にしようかなと考えていたのですが、流石にちょっと盛り過ぎデスヨネと思いまして「作法」にしました。作法でも十分誇張があるとは思うのですが。 体系立った技術や為になるような論述はなにひとつ書かない脚本・演出作法、 精神論や偏屈な思い込みばかりの脚本・演出作法 その代わりと言ってはなんですが、私自身や周りの方の実体験も含めつつで、いわゆる紋切り型のWebで検索すると同じような事を書いてある記事が10件20件出てくるような正統TIPSじゃない、かつ学校で教わるような基本のキの字もないような偏りのある邪道的独り言でもって、芝居を作る方や芝居を観られる方や、これから芝居をやってみようかなと言う人達の心をムズ痒くしていきたい所存です。 第一回目は「独断と偏見の作家タイプ別分類」 「脚本を書こう・と思うきっかけになるモノで一番最初に頭に浮かぶ要素は何ですか?」 これは色んな作家と個人的にお話しができる機会を度々頂いた時に、自分が好んで良くする質問の一つです。脚本を書く原初のエンジンになるモノは何ですか・と言い換えても良いと思います。 聞いてみると本当に様々・作家の数だけ拘りがありいつも聞いていて楽しいです。そこで勝手ながら、それらを乱暴にまとめてタイプ別にしてみました…恐縮です!1.台詞、タイトル 作品の主役は台詞もしくは物語となるので、物語と比較すると登場する人物達は物語に従属することになる人達。 殆どの作家さんは「台詞」と答える多数派分類(ただ「タイトル」はあまり聞いたことがない)。日常生活を送っている時にふとフレーズが頭の中に浮かんできて、その後はこの台詞・タイトルを使って一本物語を書くことは出来ないか、と言う手続きをしていく事になる。この手の方は物語を考えるのがとても得意な人なのではないかと思う。ひとつふたつの(発想時点はまだ何の連続性もない)台詞だけで、その前後のストーリーを編む作業が必要になる。 このタイプの人は想像力豊かなのは勿論、体力的にタフな人が多いように感じる。台本を書き終えるのが先か、想像力が尽きるのが先か。孤独なデスマーチ。体育会系なのでギリギリまで自分を追い込む。頑張ればできるぞと言う洗脳を自分に掛け続けている(実際書ける)。 そして苦心の結果出来上がったモノに最初に考えた台詞やタイトルが…あれ?ないぞ?まあいっか。ということも。2. キャラクター、人物 次に多いのはキャラクターと言うか、人物もしくは肩書き。 こちらの場合は物語が登場人物に従属している。「こんな人いたら面白いんじゃないかしら」と言うところが発想の起点になる。例えば白いモノしか食べられない魔法に掛かってしまった人であるとか、肩書きだと指名手配中の犯人だけど警視総監、とか(この例が面白いかどうかは絶対に責任を持ちません)。 このタイプの人で面白いものを書ける人は割合理論派が多くて、エンジンとなるキャラクターを考えたら次の手順としてその人を活かせるような周りの人達を創造していくらしい。最初に考えた役と正反対の存在をライバルにしてみたり敢えて身近な存在にしてみたり。もしくは似たような境遇の存在を配置してみたり。 自分が作品を作る時の「自分なりの手順」と言うものを自覚している方も多いようで、一人目が思いついてしまえばあっという間に書き切ってしまうと言うことも。多作・筆が速い人が多い。 ある人は、いつも似たような筋の話を作りそうになってしまう事が悩みだそうです。3. 演出、テクニカル(舞台装置、照明、音響) 個人的に聞き回ってみた結果意外と支持が熱い層。演出兼任している作家さんに多数。 物語も人物も一旦置いておいて「どう見せたいか」が第一優先で原初。「舞台上に一面水を張ってみたい」「真っ暗な中でやりたい」「天井から薔薇の花びらを降らし続けたい」「舞台上で米を炊くぞ!」など、アイデアの数も全グループの中でピカイチであるが無茶を言い過ぎて周りのメンバーに良く止められる。ストーリーがあってないような作品を書く人も潜在的にはこの系統。 自分の頭の中に思い描いた見せ方を実現する事が使命なので、脚本はただの文字列というか道具と言うか踏み台という認識。その為出来上がったテキストを役者に見せると何ともミステリアスな表情をする。 このグループにのみ特化している人は「書きたいものなどない」と明言するので注意。役者が「このストーリーのテーマは何ですか?」と言うとそんなものはありませんと言った風な答えが返ってきてしまう事がある。そういう時は、「このシーンはどんな風に見せたいですか?」と聞く事を推奨。たっぷりと語ってくれるに違いない。4. 設定、プロットの一部 一番正統派と言えば正統派だけど実はそんなにいない。キャラクター派や演出・テクニカル派と類似しているものの、こちらはキャラクター派よりはもう少し起承転結の一部があり、演出・テクニカル派よりももう少し具体的。「気弱な少年が忍び込んだ船が実は海賊船だった」とか「行方不明の青年からの手紙が女たちのところに届き、女達は協力して男を探しに行く」など。 最初に思いついた時点で物語の一部が出来ているので書き出しが速い。一旦書き終わるのも速いがサアいざと自分で読んでみると「あれ40分しかないじゃないか、他に何を書けば良いんだ現象」がたまに起こる。そこからの再構築が苦痛らしい。 すべての要素が力強い物語の筋に収束するためか、キャラクター派の人より実は群像劇や大人数芝居が書きやすいと仰る方が多いようです。 ここから少数派になっていきます。5. 場所、土地 原初にあるのは場所、土地、風景。そこは実際の場所であったり空想の風景だったりこの世の何処にも存在しえない場所であったりする。「その場所が書きたい」もしくは「そこで生きる人々を描きたい」と言うのが創作の原動力になる。 実際に存在する場所をテーマにする場合、必ず現地に取材に行くという方もいる。勿論場合によっては劇団員も強制連行である。実際の場所を起点に後は空想で書くという種類の作家さんも。当然ここに属する方は舞台美術への拘りが強い方も多い。台詞はさりげなく、リアルで、作られた台詞回しが少ない傾向。 作品の中の頂点は勿論「場」。場は何も語らずただそこにあるだけ。だから場所にのみ特化すると台詞量そのものが激減するようです。6. 時代 少数派と言うよりは一部の人がこれを好んで沢山書かれる。勿論「時代物」の事。特に和物が人気。殺陣を入れるか入れないかで見えない透明な境界線がある(らしい)。 ここの方はとにかく「設定萌え」で蒸気機関車!袴!ステンドグラス!馬車!貴族階級!うおおおお!ご馳走様です! 書籍や当時の新聞を調べたり、調査量はナンバー1。今年の作品のことを調べている間に別のテーマも興味が出てきていつの間にか二作品出来てしまいました。ありがとうございます。 とにかく知識と勉強量が糧になるので何となくでこのジャンルに手を出すと危険。 場所土地の人達が台詞が少なくなるのに対してこちらはどうしても台詞が多くなる。特に時代背景を説明する「説明台詞」と「これは一体誰に説明してるんだ…?」と言う葛藤が避けられないそう。7. 俳優 「この俳優が使いたい」と言う種類の方々。前回の「あてがき」の記事で書いた「俳優のことを考えて本を書いてみる」と言う描き方の手段とはまた少し違っていて、まず先に「君に決めた!」と言うのがあってそこから「この俳優を舞台に上げてとにかく面白いことがしたい」と言うのが目的で演劇では極めてレア。コントグループにはとても多い。 極端に振り切った人にひとりだけ会ったことがあるが、その人はある俳優を稽古場でひとり真ん中に立たせて「さあ1時間面白いことをし続けろ」と言ったとか、言っていないとか。 以上、独断と偏見の作家分類、いかがだったでしょうか? 何百人にアンケートを採ったわけではないので実体とは違う部分も多々あるかと思いますが、ひとりひとりに素朴にゆっくりお話を聞いた積み重ねなので、妙にたまにリアルなところで書けたのではないかなと思っております。 ただ、多種多様な作家さんたちをこんなに少ない分類で分けられるはずもなく、殆どの方はこれらすべての要素を少しずつ跨って持っていたり、ここには書ききれなかったモノを当然お持ちかと思います。 自分はコレかもな?とか、役者さん達も「あの作家はこのタイプかも」など、半ば血液型占いのように温く読んで頂けたら幸いです。(と、最後に書いたらアレなのでしょうか) 最後にちょっとだけ真面目に書かせて頂くと、これを読んでいる方でもしこれから脚本を書いてみたいなあと思っている方がもし居たらですけど、一番最初は、あなたの一番好きなモノを書くのが良いと思います。好きな人、好きな食べ物、好きな家族、好きな写真、何でも良いと思います。好きなモノを数えて、何故ソレが好きなのかを考えて、それを言葉にすればいいと思います。 (個人的な考えですが「嫌いなモノ」で作品を作るのは二作品目以降の方が良いと思います) それでは、最後までご覧頂きありがとうございました。
脚本のこと:あてがき、好きですか。嫌いですか。 脚本・演出作法 2014年04月09日 1 第七回公演「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」上演台本--以前当て書き(あてがき)についての記事を書かせていただいたところ、数名の方からご反響頂きましてそれならと・調子に乗ってまた「脚本の当て書き」について書いてみようと思う次第です。 実際当て書き以外にも脚本を書くときにまつわる色々を以前からこちらで公開させて頂いていますと、今迄頭の中だけで考えていた事であったりとか、演劇関係者であるなしに関わらず雑談のように話していただけの事柄について、改めて文章にまとめてみることによって自分の中でも新たな発見があったり、ああ自分では判然としていなかったけどこんな風に考えていたのかと言う気付きがあって、─少なくとも個人的には、有意義な作業でありました。 私個人の少ないかつ偏った経験ではありますが、これからも引き続き思っていること・感じていることなどこちらで書いていけたらいいと思っています。 Twitterだと連投してもなかなか「ひとつの文章」としては読みづらかったりするので(とは言え連投はしばしばしておりますが・・・) --【当て書きについて】 以前こちらの記事で「脚本家が、既に出演陣が決定しておりその役者のことを少しでも考えたらそれはもうあてがきだ。役者のことを全く考えないで本を書く脚本家はいないから殆どの脚本はあてがきだ。」と言う少々乱暴な事を書いたのだけれど、 まあ、一旦その基準は置いておいて。 皆さんは「あてがき」って好きですか? 作家の皆さん、好きですか?もしくは当て書きで書くのは得意ですか、苦手ですか。 役者の皆さん、好きですか?もしくは当て書きの舞台出たいですか、出たくないですか。 自分は先程言ったような全く広域当て書き論者であるし、俳優の履歴や雰囲気が好きで結局それをエネルギー源に脚本を書いていることが多いのでどんな俳優が演じるのか全く決定していない状態で脚本を書くのは根本的に無理だと思っている。だから、当て書きは好きだ・それ以外やったことがない・苦手と言うより当て書きなしで書くことができない・と言うのが自身の立場だったりする。 その立場を今回のテーマに沿ってもっと端的に言ってしまえば「あてがきこそが私の書きたいことである」になるのかもしれない。 書きたいこと。 さて、昨日から小説を書き始めた方であれ10年戯曲を書いている方であれ、作家は恐らく全ての作品に通底する「書きたいこと」と言うもの持っていると思う。 自分が舞台で表現するために書きたいもの、それは、 人間の発している言葉や態度やそれの所以となる思い出、もしくは演劇メディアが永劫なしえない「風景そのものを描くこと」であったりするので、人間を省いた状態で書くことは難しい。 反対に、書きたいものが「誰も考え付かないようなアイデア」や「綿密に練られたトリック」などである作家様は当て書きを必要としない、または当て書きと言う考慮自体存在しないのかもしれない。 「何が書きたいか」と言うのは、「何が書きたくないか」「何がどうでもいいか」を考えることにもなると思う。 演劇は人間の芸術と言われる。だからこそ、人間不在の演劇があったって構わない。人間に愛がない作品があろうと人間に興味がない俳優に興味がない作家があろうと別にいい。それは多分、作品の優劣自体とは別の位相にある分類だ。 「当て書きは苦手だけど人間は好き。見たことのないキャラクターを描きたい」と言う方も必ずいると思う。でもそれは「見たことのない」に対比される側に、その作家の周りにいる人間や、作家がどこかで知りえた「人間の情報」が存在するから、その人のこと考えれば当て書きだという観点からいえば円の一番外側にあるけれどそれも当て書きになるのだと思う。「知っているもの」を深く考えなければ「知らないこと」にはたどり着かない。 あれ、自分の書いてたのって意外と当て書きなんじゃないのか?と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、そういう意味では、そうです。あなたの人間への思いの量が、そのまま当て書き成分量です。 当て書きって、多分作家が自分なりに出来る方法で俳優に寄り添いながら書いたものの事だ。 俳優サイドから見た当て書きの話に移る。 「役作り」と言うトピックについて良く語られるのは役に自分を近づけるか、自分が役に近づいていくかと言うこと。俳優達はそれぞれ、いや役とは「なる」ものだ、であるとか役とは心を「貸す」事だ、と自分にしっくり来る様々な表現がされている役作り。 その役作りと当て書きの関係はどうなるのでしょう。 もし当て書きが「寄り添う手段」ではなく「書かれる結果を本人に似せる」ものであるとするならば役作りは確実に役を自分に寄せて行く作業のことになる。 むしろ作家は本人に完全一致もしくはそこから一欠片ほどズレたところをあえて狙って書いているかと言う事になるので本質的に役作りは不要と言う事になるだろう。 こういう当て書きが嫌い・苦手と言う俳優さんに何人かであったことがある。 理由は様々で普段の自分が嫌いであるとか、自分に近いところで演じると芝居をしている気がしなくてやりがいを感じ辛いであるとか。そういった意見の是非はここでは触れないけれどそういう気持ちになる当て書きというのは作家が役者の領分を脚本から規定してしまっているのだろう。たとえそれが無意識だとしても。 作家の思うありのままと俳優自身が認識しているありのままのギャップが大きかったりすると現場が悲惨になることもある。まあ自分の好きなようにやりたいと言う希望が演劇と言う集団創作でどの程度幅を利かせて良いのか・と言うのもあるけれどそれもまた別の話。(悲惨になっても別に良いんじゃないかとは思う) 当て書きが好きと明言される方は実は会ったことがありませんが、そういう方はその規定や制限を取っかかりに取り組んでいくのが性に合っているかもしくは、自分を他者に委ねることがとても得意な方なのだろうと思う。 しかしここまで長々と書いてみたように当て書きというのを「作家が俳優に寄り添うこと」であると仮に定義してしまうならすればそこには、書かれた台詞回しや環境が俳優本人に似ているかが一切考慮されていないことになる。いや、できあがったものが似てしまう・ほぼ本人になってしまうと言う確率は低くないのだけれど、当て書きを精神論とするならもしくは、当て書きを「結果」ではなく「手段」の呼称とするならば、役者の役作りの手続きの方法が当て書きによって限定されることはまずない・と言う事になる。 回りくどい言い方になってしまったが、俳優に寄り添いながら本を作り上げた時点で当て書きと言う手段の効力は終了していて、その後の稽古で俳優がどのように役作りをするかは全く関係がない。この場合の当て書きには「俳優が普段のありのままの魅力で舞台に立って欲しい」と言う願いは一切込められておらず、また役者の役作りをそれによって規定するものではないから。まずはとにかく納得が行くようにやって頂きたいな・と思う次第です。 本当に自分が納得行くものが書けたときは、俳優にどんなタッチでやられても大丈夫な強度が出来るし、逆に俳優さんも、自分が「乗れている」と思うときはどんな演出が付いても軸がしっかり揺らがないものですね。お互いがお互いの個性や強度で闘い合って、ようやっと抽出された一滴だけが純粋個性であると思う。
あてがきのこと 脚本・演出作法 2013年09月24日 0 立夏です。ひっそりとご好評いただいている脚本のこと。 今回は「あてがきのこと」を書きたいと思います。(よろしければお付き合いください) 映画のシナリオや演劇の脚本など、人が演じるもの台本を書くときの考え方に「アテガキ」というものがある。先に役者が決まっていて、役者に合わせてセリフを書くという意味だ。 私があてがきというものの存在を知ったのは今から十年前、ラーメンズの小林賢太郎曲集のあとがきに書いてあったのを読んだことが最初で、その後大学の演劇部に入った時に先輩から「今回はあてがきで書いたから」と渡された脚本の中の自分の役がそれはもう恐ろしく口の悪い女だったことを今でもよく覚えている。 劇団が上演のためにオリジナルの脚本を執筆開始する時点で、構想何年と言うこともない限り恐らく出演予定キャストのほとんどは決定していることと思う。獣の仕業は劇団であるから所属の俳優がいて、所属の外部出演と調整して上演日が最も始めに決まる。この時点で客演募集などは始まっていないが大体の人数は執筆前におおよそ決まっていて私は執筆開始時点で誰が出演するかを把握した状態で書き始める。劇団では・と言うことを強調したのは確かプロデュース公演の場合は公演ごとにイチから俳優にオファーをするはずなので脚本が完成してからキャストを集めるかもしくは執筆と並行してオーディションを行うのだろう(プロデュース公演に関わった事がないのでこの辺りは全く分からない)。各団体の公演準備期間やタイミングで千差万別かと思うので「こういうものだ」と言い切ることはできないけれど。 少し脱線してしまったのだけど、獣の仕業のようにキャストが概ね決まってから脚本を書く場合、脚本家役者に合わせようと思うが思うまいが、まったくあてがきをせずに作品を作るのはまず無理だと言っていいのではないかしら。もちろん作家にキャスティングの権限がない団体や、作家が書くだけで現場に全く顔を出さない団体が数多くあることを私は知っているけれど、この場合でも作家はおそらく役者の最低限の情報(背格好や年齢とか)は知っているのだろうと思う。それさえ知っていれば、それだけでほんの少しのあてがきが生まれると思う。 私なりのあてがきの定義。アテガキとはなんですか?と聞かれたら私はこう答える。役者のことを考えて書くことです、と。脚本家の中に役者のことを考えないで書くものは殆どいない。 私のアテガキは役者の喋り方や見た目に似せて書いているわけではない。役者の歴史や思いのアンサーソングのように、内側・のことを書いている。脚本を書くときには役者たちの顔が浮かぶ。役者たちの話し声が聞こえる。役者たちが生来持っている物語や歴史があって、私はそこに向かって言葉を投げかけていく。そうやってできた脚本の中の人物たちは表面的な部分を似せたあてがきよりもある面で役者たち本人に良く似ていると思う。 今週上演される「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」では、表面的な口調をそれぞれの役者本人の口調から離れた部分で書いている。本読みの時はずいぶん喋りに強い違和感があったようで皆悉く歯茎がぶかぶかしたようなセリフ回しだった。でも大丈夫、言葉は違っても、心はみんなのものだから…、と思っていた。しかし話し方と言うのは人と人とのコミュニケーションで最も大事な項目の一つ。言葉だけではいけないけれど、やっぱり言葉は偉大なものだ。だから今回は今まで獣の仕業をずっとご覧になってくださった方々にはこれまでと一味違う役者の一面をお見せできるのではないだろうか。 いよいよ今週本番です。皆様のご来場、心よりお待ちしております。=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*獣の仕業第七回公演群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌The Act of Beast 7th Stage[The Requiem for my Crowds, my Monsters, and my Lives]9/28,29(土日)@荻窪小劇場詳細は獣の仕業ホームページ公演特設ページにて
脚本をつくるときに大切な「場所、時間、季節、温度、それから話し声」のこと 脚本・演出作法 2013年09月05日 0 立夏です。ブログでは出演者紹介が盛り上がっておりますが、今回の記事はその短期手中連載から少し横道にはずれて… 数週間ほど前に、脚本に出てくる一人二役のことについて書いたが、今回はその脚本を書く場所についての話を。 (よろしければお付き合いください) 第三回公演「雷魚、青街頭、暗闇坂、あるいはうしなわれたものたち」の頃から今までずっと続けてきたことがある。 それは「脚本を書く場所と時間を限定する」と言うこと。 自分の気持ちを表現するようなモノづくりをした時のことを思い返していただけると一定数共感いただけることと思うけれど、これはとても単純なことで例えばメールでもいい、携帯で打ったメールはその時の感情はもちろん、更に何時に、どんな場所で作られたものかによってその手触りが変わってくると思う。 朝よりも夜のほうが不安な気持ちになるから大事なことは午前中に決めたほうがいいであるとか、雨の日は頭痛がするとか。先に場所や時間などの環境があって、その環境が私たちの感情に作用していく力を私はずいぶん信じている。些細なことであるし、気分の問題なのかもしれないのだけど、演劇をやるうえで些細なことや気分の問題はむしろ一番大事なことなのではないだろうか。 私が脚本を書くときのルールは、その環境を可能な限り揃えるということだ。 次回第七回公演「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」はもう脱稿しているけれど、第三回公演から第七回公演の今まで、それはある程度の目に見える結果を出しているような気がしていて、それは細かい部分や私だけが知っている(もしくは伝えきれなかった)部分を除くと、概ね「作品の持つ空気感が、脚本を書いていたその時間や場所の空気感と同じになる」と言うことになっている。 第三回公演「雷魚、青街頭、暗闇坂、あるいはうしなわれたものたち」の執筆時期は7月~8月、熱い部屋で雨戸をしめ切って真っ暗な部屋で扇風機もクーラーも付けずに書いている。もちろんとても暑かったので…、机の上には常に2Lの麦茶を用意していた。 第四回公演「飛龍伝」も同じような書き方をしている。ただ扇風機は付けた。 この二つの作品は上のようにどちらも同じような環境で書いていて、どちらも陰鬱で、まるで密室の中のような抑圧された空気の作品となった。 この「暗い中で書く」と言うのが私の脚本を書くときの基本スタイルにいつの間にかなっていて、獣の仕業のあの緊張感や薄暗い空気は脚本を書いているときの場所によって一部作られているのかもしれない。 第六回公演「オセロ」と番外公演「助ける」も同じように暗い場所で書いている、けれど、こちらは常にセリフを発話しながら書いている。 またオセロから雨戸がない家に引っ越してしまったので書く時間は夜に限定された。 この雨戸がなくなった件が自分で発見だったのは「雨戸を閉めて夜のように書く」ことと「夜に書く」ことは全然違うということだった。 これは自分の細かい感覚なので実際に作品に反映され切っている自信はないけれど、「雷魚」「飛龍伝」に比べて「オセロ」「助ける」の方がより内省的に、下にもしくは内に籠って行くような手触りになっている。書いているときの気持ちも、この二作品が一番苦しかったかもしれない。それはきっと夜の力だ。 第五回公演「せかいでいちばんきれいなものに」だけが異なる違う書き方をしていて、これは午前中に窓を開けて書いている。また、上演時期の都合この作品だけ執筆時期が明示的に冬だった。 今まで暑くて暗い中で書いていたのが、この作品で明るくて眩しい中で書いていることになった、そして、正にそのような雰囲気を持った作品となった。特に自分の中で象徴的なのがラストシーンには脚本5ページ分(約3000文字)の女優5人でのユニゾンの長セリフで、これはすべて観客への呼びかけとなっている。明るい場所で書くと気持ちが外に向かうのかもしれない。 さて、このように、毎回少しずつ書く場所を変えているのは、まあ何と言いますか、私の密かな遊びのようなものです。もし本や音楽を作っている人、もしくはこれから大切なメールを書こうとしている人がこれを読んでいたとして、「すてきなものを作りたいな」と思ったら、あなたが素敵だと思う場所、あなたが作りたいもののような風景の場所で作ってみるのを熱くお勧めしたいです。 今回の「群集」においては、今までとは少し趣向の違った環境を作っている。 これは内容には触れないのでネタバレにもならないから言ってしまうと、今回は脚本を手書きで書いている。最終的にはデータにするのだが、PCを使うのは手書きのものを打ち込むときだけにして。その時少し画面で修正を加えるのだけれど、とにかくベースは今回はノートとペンで作っている。 また時間の許す限り喫茶店で書くようにしていた。人のいる場所、特に知らない人の話し声が聞こえる場所と言うことで。 書いている間には、いろんな声がした。私の知らない人々、人々も私のことを知らない。そこには楽しそうな声、悲しい声、怒っている声、もう二度と聞けないかもしれない群集たちの声。 ふいに聞こえた声をいくつか、脚本にそのまま拝借させていただいた。このセリフが具体的になにか・というのは、わたしだけの宝物にしておきたい。(これは聞かれても答えないようにしようかなと、思っていたりします) これがどんな影響を作品に及ぼしているかどうか、ぜひ劇場に足を運んでご覧いただければ幸い。=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*獣の仕業第七回公演群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌The Act of Beast 7th Stage[The Requiem for my Crowds, my Monsters, and my Lives]9/28,29(土日)@荻窪小劇場詳細は獣の仕業ホームページ公演特設ページにて