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獣の仕業のしわざ

劇団獣の仕業のブログです。 日々の思うこと、 稽古場日誌など。

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脚本のこと:あてがき、好きですか。嫌いですか。


第七回公演「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」上演台本
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以前当て書き(あてがき)についての記事を書かせていただいたところ、数名の方からご反響頂きましてそれならと・調子に乗ってまた「脚本の当て書き」について書いてみようと思う次第です。
 実際当て書き以外にも脚本を書くときにまつわる色々を以前からこちらで公開させて頂いていますと、今迄頭の中だけで考えていた事であったりとか、演劇関係者であるなしに関わらず雑談のように話していただけの事柄について、改めて文章にまとめてみることによって自分の中でも新たな発見があったり、ああ自分では判然としていなかったけどこんな風に考えていたのかと言う気付きがあって、─少なくとも個人的には、有意義な作業でありました。

 私個人の少ないかつ偏った経験ではありますが、これからも引き続き思っていること・感じていることなどこちらで書いていけたらいいと思っています。
 Twitterだと連投してもなかなか「ひとつの文章」としては読みづらかったりするので(とは言え連投はしばしばしておりますが・・・)

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【当て書きについて】

 以前こちらの記事で「脚本家が、既に出演陣が決定しておりその役者のことを少しでも考えたらそれはもうあてがきだ。役者のことを全く考えないで本を書く脚本家はいないから殆どの脚本はあてがきだ。」と言う少々乱暴な事を書いたのだけれど、
 まあ、一旦その基準は置いておいて。

 皆さんは「あてがき」って好きですか?

 作家の皆さん、好きですか?もしくは当て書きで書くのは得意ですか、苦手ですか。
 役者の皆さん、好きですか?もしくは当て書きの舞台出たいですか、出たくないですか。

 自分は先程言ったような全く広域当て書き論者であるし、俳優の履歴や雰囲気が好きで結局それをエネルギー源に脚本を書いていることが多いのでどんな俳優が演じるのか全く決定していない状態で脚本を書くのは根本的に無理だと思っている。だから、当て書きは好きだ・それ以外やったことがない・苦手と言うより当て書きなしで書くことができない・と言うのが自身の立場だったりする。
 その立場を今回のテーマに沿ってもっと端的に言ってしまえば「あてがきこそが私の書きたいことである」になるのかもしれない。


 書きたいこと。
 さて、昨日から小説を書き始めた方であれ10年戯曲を書いている方であれ、作家は恐らく全ての作品に通底する「書きたいこと」と言うもの持っていると思う。

 自分が舞台で表現するために書きたいもの、それは、
 人間の発している言葉や態度やそれの所以となる思い出、もしくは演劇メディアが永劫なしえない「風景そのものを描くこと」であったりするので、人間を省いた状態で書くことは難しい。
 反対に、書きたいものが「誰も考え付かないようなアイデア」や「綿密に練られたトリック」などである作家様は当て書きを必要としない、または当て書きと言う考慮自体存在しないのかもしれない。

 「何が書きたいか」と言うのは、「何が書きたくないか」「何がどうでもいいか」を考えることにもなると思う。
 演劇は人間の芸術と言われる。だからこそ、人間不在の演劇があったって構わない。人間に愛がない作品があろうと人間に興味がない俳優に興味がない作家があろうと別にいい。それは多分、作品の優劣自体とは別の位相にある分類だ。
 「当て書きは苦手だけど人間は好き。見たことのないキャラクターを描きたい」と言う方も必ずいると思う。でもそれは「見たことのない」に対比される側に、その作家の周りにいる人間や、作家がどこかで知りえた「人間の情報」が存在するから、その人のこと考えれば当て書きだという観点からいえば円の一番外側にあるけれどそれも当て書きになるのだと思う。「知っているもの」を深く考えなければ「知らないこと」にはたどり着かない。

 あれ、自分の書いてたのって意外と当て書きなんじゃないのか?と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、そういう意味では、そうです。あなたの人間への思いの量が、そのまま当て書き成分量です。
 当て書きって、多分作家が自分なりに出来る方法で俳優に寄り添いながら書いたものの事だ。


 俳優サイドから見た当て書きの話に移る。
 「役作り」と言うトピックについて良く語られるのは役に自分を近づけるか、自分が役に近づいていくかと言うこと。俳優達はそれぞれ、いや役とは「なる」ものだ、であるとか役とは心を「貸す」事だ、と自分にしっくり来る様々な表現がされている役作り。
 その役作りと当て書きの関係はどうなるのでしょう。

 もし当て書きが「寄り添う手段」ではなく「書かれる結果を本人に似せる」ものであるとするならば役作りは確実に役を自分に寄せて行く作業のことになる。
 むしろ作家は本人に完全一致もしくはそこから一欠片ほどズレたところをあえて狙って書いているかと言う事になるので本質的に役作りは不要と言う事になるだろう。

 こういう当て書きが嫌い・苦手と言う俳優さんに何人かであったことがある。
 理由は様々で普段の自分が嫌いであるとか、自分に近いところで演じると芝居をしている気がしなくてやりがいを感じ辛いであるとか。そういった意見の是非はここでは触れないけれどそういう気持ちになる当て書きというのは作家が役者の領分を脚本から規定してしまっているのだろう。たとえそれが無意識だとしても。
 作家の思うありのままと俳優自身が認識しているありのままのギャップが大きかったりすると現場が悲惨になることもある。まあ自分の好きなようにやりたいと言う希望が演劇と言う集団創作でどの程度幅を利かせて良いのか・と言うのもあるけれどそれもまた別の話。(悲惨になっても別に良いんじゃないかとは思う)
 当て書きが好きと明言される方は実は会ったことがありませんが、そういう方はその規定や制限を取っかかりに取り組んでいくのが性に合っているかもしくは、自分を他者に委ねることがとても得意な方なのだろうと思う。


 しかしここまで長々と書いてみたように当て書きというのを「作家が俳優に寄り添うこと」であると仮に定義してしまうならすればそこには、書かれた台詞回しや環境が俳優本人に似ているかが一切考慮されていないことになる。いや、できあがったものが似てしまう・ほぼ本人になってしまうと言う確率は低くないのだけれど、当て書きを精神論とするならもしくは、当て書きを「結果」ではなく「手段」の呼称とするならば、役者の役作りの手続きの方法が当て書きによって限定されることはまずない・と言う事になる。

 回りくどい言い方になってしまったが、俳優に寄り添いながら本を作り上げた時点で当て書きと言う手段の効力は終了していて、その後の稽古で俳優がどのように役作りをするかは全く関係がない。この場合の当て書きには「俳優が普段のありのままの魅力で舞台に立って欲しい」と言う願いは一切込められておらず、また役者の役作りをそれによって規定するものではないから。まずはとにかく納得が行くようにやって頂きたいな・と思う次第です。

 本当に自分が納得行くものが書けたときは、俳優にどんなタッチでやられても大丈夫な強度が出来るし、逆に俳優さんも、自分が「乗れている」と思うときはどんな演出が付いても軸がしっかり揺らがないものですね。お互いがお互いの個性や強度で闘い合って、ようやっと抽出された一滴だけが純粋個性であると思う。



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