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獣の仕業のしわざ

劇団獣の仕業のブログです。 日々の思うこと、 稽古場日誌など。

一人二役

立夏です。今日は脚本の、とりわけ、「一人二役」ことについて、書いてみようと思う。

 獣の仕業の今までの公演ではほぼ必ず、一人二役が必ずあった。以下の通り。

 まずは旗揚げの「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」。この作品では、冒頭のシーンで全員でひとりの台詞を出演者全員で演じていた(ちなみにこのシーンに該当するものが、再演の今回も冒頭に存在するが、内容も受ける印象もずいぶん変わっていることと思う。初演をご覧になった方は楽しみにしていて下さい。)

 第二回では1シーンしか出ない役も含めて一人四役が恐らく最多。
 第三回公演では全員が最低一人二役。多い人間で三役。

 第四回公演はつかこうへいの「飛龍伝」だったがキャストは9人で2003年バージョン(役柄は約20人)を採用したので、山口・美智子・桂木以外は全員全共闘と機動隊両方演じることとなった。

 第五回公演は会話よりイメージシーンが多く、その為にそもそも誰がどの役というものが明確に存在していなかったので、場面場面によって役者にはイメージを使い分けて貰った。唯一一人分の役を演じていた俳優も「その時その時で別人のように人格が違う男」と言うお願いをしていた。

 第六回公演「オセロ」では、「一人二役」ではなく「二人一役」も存在した。
夜光役(原作ではイアーゴー)がそれだ。二人の女優にひとつの役を演じて貰った。演出上は夜光の中には相反するふたつの人格がいて、二人が夜光というひとりの人間の中で「ああでもない」「こうでもない」と言いながらオセロを罠に掛ける算段を整える次第だった。ちなみに脚本上では二人は「夜」と「光」と名前を分けて、それがそれぞれの性格を反映するようになっている(これは上演時には分からない拘りだったので、遊びのようなものかもしれない。こういう遊びについては、脚本を書いたことのある方は少なからず共感していただけると思う)
 また原作には存在しない「緑眼玉の化け物」(嫉妬の象徴とされている)役とオセロ役は一心同体でシーンによって、または台詞一つ一つごとに、役を交代する演出だったため、これは一人二役同時に二人一役ということだろう。

 直近の最新上演が本年6月末に江古田の演劇祭で上演された「助ける」だが、これだけ一人二役構成になっていない。
 と言うのもこれが上演時間30分の短編ものでしかも二人芝居だったため。その為脚本の構成が至極シンプルになり唯一の例外となっている。


 さて、一人二役は演劇の定石で、二人一役も(珍しいと言って頂いたこともありますが)そこまで珍しい手法ではなく、ただほとんど全ての公演においてどちらかまたは両方が採用されているのカンパニーとなると、少し数が絞られるのかも知れない。
 だとすれば、一人二役という脚本に、強い拘りがあるのだろうと推察できそうだが残念ながらそんなことはなく、実はあまり計算せず、ありのままに書いていたらこんなことになっている。

 では計算なしにそうなっていった理由は何故だろうなと考えてみたのだけど、結局先にも書いたそれが「ありのまま」だと言うことなのだろう。その方が私達の頭の中に近いような気がするから。そんな理由が1mmくらいはある(考えたけどそれ以外の理由はまだ整理できていません)。

 私達の頭の中を飛び交う無数の言葉達は、私達の心だけを成分に出来ているのではない。
 例えば、標識が目にとまった瞬間にその人の頭の中に「標識の言葉」がぽん・って飛び込んでくるだろう。

 「止まれ」!

 見た瞬間に私達は同時に頭の中で「止まれ」と、黙読をしている。車の助手席に座ると通り過ぎていく看板が頭の中に大量に流れ込んでくるし、家にいても、外から誰かの声が聞こえて、聞こえたその瞬間つまり私達がそれを言葉だと理解した瞬間には、もう私達はそれを「読んで」いる。誰かの声を聞いても、手紙を読んでも、音楽を聴いても、風の音でも、それはその瞬間に言葉になる。私達の頭の中に、純粋に「私」の心の中から生まれた言葉なんてどれほどあるだろう?殆どないのではないだろうか。私達の頭の中はそんな風にして、私達以外の言葉で溢れている。

 そうして生まれた頭の中の言葉は必ず「私」の心体を介して生まれていく。私達が感じる事象に「私」を通らないものはない。私が知らないものは私世界には存在しない。誰も知らない場所の綺麗な石は光を反射することはないみたいに。(でも私は誰も知らない石も宝石だって、信じているけれど)

 私はそんな世界を、舞台の上でも立ち上がらせたいのだ。沢山の人が集まって、目の前に人間が居て、声に出した言葉だけではもったいないじゃありませんか。人間の中にもその周りにも、私達の知らない、もっともっと美しいものが溢れているのに。

 だから獣の脚本は、人物の境界線が曖昧で、誰の者でもないみんなの言葉を、みんなで少しずつ紡いで行くみたいに出来ている。風の音も、標識の「止まれ」も、全部が「私」をつまり役者達を媒体にして届いていく。
 それが私なりの、私達の心に近づく方法だから。
 

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