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獣の仕業のしわざ

劇団獣の仕業のブログです。 日々の思うこと、 稽古場日誌など。

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獣の仕業:第七回公演始動

こんばんは。お久しぶりです。お世話になっております。あるいは初めまして。

藤長由佳です。



14(日)より、いよいよ第七回公演に向けての稽古が始まりました。



まずは、はじめて客演してくださるお二人と共に、獣の仕業的WS。

身体、発声、発話のチューニングをしつつ、

キャッチボールをしつつ、

つつ、つつ、と稽古は進んでいきます。




写真は稽古の合間に撮ったもの。










ブログカテゴリに「第七回公演」を追加して、エンターキーを押して、

カテゴリ一発目の記事にこうして文字を連ねていますと、

季節外れのたとえではありますが、

真っ白な雪原に足跡をつけていくときのような、高揚感があります。




第七回公演。

これからどんな軌跡が描かれていくのか。

どんな舞台になっていくのか。

乞うご期待。




2013/09/28(土) ~ 2013/09/29(日)

荻窪小劇場さんにて、お待ちしております。

corichページもできました。

こちらからどうぞ。

詳細は随時更新します。

観たい!コメントをいただけたら、一同、でんぐりがえって喜びます。



このところの熱帯夜にくらべると、このごろはすこし涼しくて、過ごしやすい気がします。

みなさまもどうぞよい夜を。寝冷えにはくれぐれもご注意ください。



藤長由佳
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私的追想:獣の軌跡3

こんにちは。連投する小林龍二です。

もう定型文になってしまいましたが、暑いですね(笑)
昨日はとうとう群馬県も風呂になったようで、このまま暑さが進行しましたら日本全土が風呂化して、
大気にもうもうと漂う湿気のみで入浴が可能になる日も近いように思います。

そうなりましたら人々は、ところかまわず入浴を始め、果ては日本がヌーディー化していくことでしょう。
するとそれが社会現象化して、節度やマナーのある行動を喚起するようになるに違いありません。


「優先席付近での入浴意欲をお切りください。」

「外での入浴、ダメ!絶対!」

「人間やめますか入浴やめますか」

などのコピーが街に溢れることでしょう。こだまでしょうか、いいえ冗談です。


さて、気を取り直しまして「私的追想」を再開します。

昨年の9月28日~29日に、既成作品の第二弾としてシェイクスピアの「オセロ」をやりました。
この前回が「物語がない」ものであったのに対して、むしろ400年近い歳月を生きたシェイクスピアの四代悲劇、
それは当然として、厳然なる物語が、固く、そして強く存在するのです。その物語の有無という差と同じように、芝居のスタイルは変貌しました。

それまでの獣の仕業では「動」が主だったものでした。
「動」による力が舞台に風を起こし波を立たせて、そしてその風が止んだ時、
さながら舞台が台風の目の中へ入ったように、その中で生まれる「静」がまさに突出していたのだと思います。

このオセロではそれが逆転化しました。
「静」による深い力、それも下へ下へと沈降していくというスタイル、
樹木が大地に根を張るように重心をいつもよりも遥かに深く最後まで落とし続けるというスタイルが取られました。

たったひとつの、挙手・投足を動かすことすら躊躇われる、
普段は無意識に送っていた身体の電気信号を意識的な信号に変換して展開させる、というものでした。
いまは、シェイクスピアの「悲劇」を前にすると、相応の「構え」が必要だったのだと解します。
こりっちやツイッターなどで多くのご感想を頂きました。ありがとうございます。


さあ、ここまでやってきたところで、前回の「助ける」です。

「助ける」については以前にもぼややんっと書いたのですが、一点気付いた点を言いますと、
「助ける」はそれ以前のものと比較して「水平」であったと思います。
過去に多く使われてきた跳躍や「落ちる」といった動きを「垂直」だとすると、
跳躍や落ちるといった動きよりも「水平」に流れる回転や動く展開が多かった、
そのような特徴もあったこと、この場で付け加えます。


さて、大変長くなりましたが、次はどのような芝居になるのか私もまだ分かりません。

9月28日(土)~29日(日)、荻窪小劇場にて行います。日程としてはオセロからちょうど1年という日程です。
どのような姿になるか、作品をご覧頂くとともに「今回はこんな特徴が…」という部分もこっそりご覧頂ければ幸いです。

…結局、宣伝文になってしまいましたね。
最後までお読みくださいましてありがとうございました。


また徒然なるままに書いていきます。


小林龍二

私的追想:獣の軌跡2

こんにちは。
この暑さいつまで続くのでしょうか。
月曜日くらいまではただの台風一過みたいなものかと思っていたのですが、気温の下がる気配なし。
昨日なんて、山梨県で39.2を観測し、風呂じゃん。
山梨県風呂になっちゃったじゃん、と思ったものです。


昨日に続き、「私的追想:獣の軌跡2」です。
しかし「獣の軌跡」とは、なんて堅苦しい感じなのでしょう、更新した後に思ったものです。
ですので、「獣のあゆみ」に変更します。ただし、この文章内のみでのお話ですね。


ところで、獣の仕業には「獣ちゃん」というものがおります。
このHPに入る際「ENTER!」と言っているものです。立夏が表の代表だとすると、獣ちゃんは裏の代表です。
公演が終わったあとには、「旅行に行こうヌン!自分はお留守番をするヌン!みんなで楽しんできてヌン!」
と言って、我らを旅行へ送り出すのです。自分はHPを閲覧される皆様のために、玄関でいつも待っています。

しかし獣ちゃんはただの「いいやつ」ではないのです。
ある時は「リア王爆発ヌン!」という純粋であるが故に、悪意のある発言をすることも、
また「ライバルはエビフライ!」という反骨精神も持っており、「蕎麦湯をゴキュゴキュ飲む」偏食ぶり。
いまだに掴みきれないものの、かわいいやつだな、いえかわいい方でいらっしゃる、なんて思うのです。

獣ちゃんの言葉はツイッターでしか読めません。
もしツイッターをされている方は、[@kmn_chan_bot]をフォロー頂ければ、めくるめくシュールワールドへご案内。
公演情報などもささやかに、つ・ぼやきます。


さて、昨日の続きをしめやかに再開します。
第四回公演は「せかいでいちばんきれいなもの」でした。

今はつまらない駐車場になってしまった、今はなき神楽坂die pratze。
2012年3月10日~3月11日という日程でした。
偶然などが重なり、東日本大震災からちょうど1年というタイミングでの作品です。

私は大震災が発生したその日、津波や火災などの映像を見て、高校生の時に見た9.11と同様、「映画ではないか」と思うくらい、私の知る「現実」以上の「現実」が目の前には映し出されていたのです。

2014年の1月、個人的に気仙沼に行きました。ただ茫漠とした風景が広がっていて、
「何も分からなくってしまった」と思ったものです。2011年3月11日、実際に被災をされた方々以外には到底分からない「結果」、それしかそこにはありませんでした。

ただ、そんな町の中、流された家の土台の上に

「GROUND ZERO」の文字

それとともに漁業用のガラスの浮き球が無数に配置されている場所がありました。
地元の方、そこに住んでいた方が作ったのかは分かりません。

ガラスの浮き球は、東北一月のしんとした太陽の光を受け、まるで陽光を受けた海が踊って光を届けるのと同じく、まっすぐに輝く光を放っていたことは未だに忘れられません。

私はこの震災が起きて、「こうすべきだ」というものこそ不確かな事象・風潮であることを知り、

「頑張ろう」

「もう頑張っているって」

「生きていて嬉しい」

「生き残って申し訳ない」


たくさんの考え・言葉を知りました。
私自身は自分の無力さをただただ知ったのみです。「私には力がありません」そのままに。

答えはどこにもありません、自分で感じたもの、気付いたもの、知ったものが、答えなのだと考えます。


「せかいでいちばんきれいなもの」は、自然にそうなったかのように、作家は「物語」をなくしました。あたかも先述の「自分で感じたもの、気付いたもの、知ったものが、答えなのだ」と示すかのように(あくまで「私的追想」です)。
その物語自体は、もちろん芝居の根底に流れてはいます。

ただこの作品は、完全に分解されていました。一本の物語の構成を置換するに留まらず、
物語のエッセンスを抽出して、そこから見えたもの生まれたものが板の上に乗ったのだと思います。

昨日から続く「芝居のスタイル」についての話としては、「飛龍伝」をほぼ踏襲していたように思います。
ただ、意外にも「雷魚より分かり易かった」というご意見を頂いたことは、個人的にも大変興味深いものでした。


なんだか神妙な心持ちになっております。
この「私的追想」は2回で終わらせようと思ったのですが、残る「オセロ」はまた次回へと持ち越します。

またまた、最後までお読みくださいましてありがとうございました。



小林龍二

私的追想:獣の軌跡1

こんにちは。小林龍二です。

本日もじりじりとした暑さに見舞われている東京から発信です。
先週に幕を引きました「まめ芝。その伍」から、早1週間が過ぎました。

早いもので、今週末から次回の稽古が始まります。
もう既出のこととなりますが、次回は初の再演です。再演される作品は、第一回公演「群集と怪獣と選ばれなかった人生の為の歌」です。思えば、獣の仕業の芝居は、第一回から現在まで変貌してきたように思います。

第一回当時は、pit北/区域にて行い、一部に現在のような「決め」の動きがあった以外は、
ほぼストレートプレイでした。個人的な話で、また恥ずかしいことでもありますが、
当時は発話性も身体性も今ほど意識しておらず、「無防備」なまま板に上がっていたのではないかと思います。

その後、

劇団とは何か、
そしてまた「所属=団員」とはどういうものなのか、
役者とはどうあるべきなのかを、

学び知る機会に恵まれました。その経験が現在まで繋がっているのと考えます。


獣の仕業が現在のスタイルを持つ契機と相成ったのは
第三回公演「雷魚、青街灯、暗闇坂、あるいはうしなわれたものたち」です。

この作品は、当時「もう観たくない、でも、また観てみたい…かな」というツンデレめいたご感想を頂いたものです。

恐らく獣史上、一番の「悪夢」作品でした、きっとこの作品は。

生き地獄そのもの、しかしその中で新しく生まれたものが、現在も続く「熱」、のようなものです。
スピード感があり、またさらには動き回り、言葉と感情と空的身体がぶつかり合うような、
そんな作品だったのではないでしょうか。
同時に、このとき、獣の仕業特長の「ハケなし」が初めて生まれたのです。


演出がこの「ハケなし」をさらに突き詰めた?のが、次に続く第三回公演「飛龍伝」です。
これは、「雷魚~」を西荻窪がざびぃさんで公演させていただいた後、

「つかこうへいの演劇祭をやりますの!ぜひ獣さん!」

という大変有り難いお言葉を頂戴し、すすっと参加させて頂いたのがきっかけでした。
「ひとつき、たっぷり、つかこうへい」

この時、「ハケなし」は「入りハケなし」に進化?したのです。
舞台を杉板のパネルで完全に覆い尽くし、ハケ口という存在・匂いをも完全にぶっ潰し、開演前から全員板付き。
私は侃々諤々、狭間をういろう回廊ただよい人となります。

「入りハケなし」の力は、共演者らが回を重ねるごとに「ひやぁぁぁ、もういやあああ」と嘆き悲しみ絶望のまにまにへと誘うもので、私は彼らにこう言ったものです。
「みんな、戦時中を思えば、そしてまたここがゲットーだと思えば、なんて幸せなのだ、そう思おう。」と。
しかしそれは妄想の話。事実は私こそが「ひやぁぁぁ、もういやあああ」と言っていた張本人なのですから。
「さあ、やるよ!」と共演者らに市中を引きずりまわされた挙句スタンバイ。およよ。

一方でこのこともお伝えしなくてはなりません。
前説にて開演を遅らせるお詫びを耳にしたときに、私は「宇宙」を見ました。

暗い暗いブラックホールの中にチラチラという幾つかの光彩。
おぉ、あれは地球か。長い道のりだった。ロペスよ、地球だ。お前が念願していた大地がそこにあるぞ。
妻よ、我が妻よ、土星の輪を君がため持ってきてあげたよ。虹色の輪ひとつひとつはただの氷の欠片、
溶けないように、大切に、運んできたんだ、アァアレ!?あれれ!?あれあれあれ?溶けてる!!
おぉ、…「お待たせしました、まもなく開演します」…これが世に言う………か、かあさん!?


みちこぉぉぉぉぉーーーーー!!!!!


そんな、得難い経験をした小林でした。
あと一歩で、ピッパラの樹の下よろしく昼下がりのがざびぃにてブッダへとクラスチェンジするところでした。
しかし一方で、つかこうへいの「飛龍伝2003」は、自分が演劇をやろうと思ったとき、
一番最初に観た作品でしたので、そこで山崎一平になれたことは、いまだに感無量な経験でした。

「しかし自分はパンツを履いてきております!」  じぃーん。


さてさて、第一回から第三回までの「今思えば…」とともに獣の紹介を簡単にさせて頂いております。
次回は、この続き、第四回公演「せかいでいちばんきれいなもの」からご案内します。


最後までありがとうございます。
熱中症などにならないよう水分は十分とりたいものですね。
夕方以降は雨が降る可能性があります。折り畳み傘があると便利です。
(NHK風)


小林龍二

助ける

「助ける」

舞台の上には二人の男女。女の名前は、ヨルハといいました。
男の名前はユウリといいました。



─耳を澄ますと魚たちの足音がする
かつて人間だったものたちの足音だ。あるとき、人々は皆魚になってしまった。
雷を呼ぶ、牙を持った魚、
あるとき、ひときわ大きな雷が鳴り、さばんと大きな波の音を合図に、魚たちは皆いっせいに自分の体を喰い始めた。
腕を喰らい、足を喰らい、そのまま頭まで食い尽くして忽然と消失する、自分たちの牙によって。

されど足音は続く・人々は自分が自分を捕食したことも気づかずに透明なまま、歩いている
人々は皆透明な亡霊だ、亡霊が車を運転し、亡霊が電話口でクレームを言う・・・




ヨルハは、目には見えない魚の足音が聞こえるといいました。


私にも魚が何なのか、はっきりとは分かりません。
けれど、そこにいないはずのものが、はっきりと「いる」と思うことがあって、それを魚と・私は呼んでいます。

魚は、私たちの失ってしまった・もしくは失ったなにかの姿です。
人々が自分たちの牙によって姿を消しても、世界は滞りなく回っていく東京の姿です
いなくなってしまったものは、二度と同じ場所には帰ってこない。
それでも、私は今まで、これからもずっと、その「魚たち」にもう一度会いたいと思っていました。

そしてなにも手を差し伸べられなかった自分、今も普通の生活を続けることしかできない自分が
ヨルハというひとりの女医の姿となりました。

─昨日、私の友達も魚になった
あっという間に自分を食べてしまった。  ・・・魚の目を近くで見たことはある?
魚は瞬きをしないから、ガラスの目に灰が入っていつも目から涙を流している。
でもそれは悲しいからじゃなく、目に入った異物を取り除こうとしているだけ・・・
透き通ったガラスの体にはどのような恩恵もその代わりに害毒もない、
すべての光が通り抜けていく、すべての音程がすり抜けていく

けれど私にはそうは見えない・・・ 友達だったから。


彼女が眠りに落ちた隙にだけ彼女の窓をたたきにくる男、ユウリ。
ヨルハのまばたきのまぶたの世界の中には、魚はやってきません。
魚は眠ることができないからです。
ただ延々と繰り返し、ユウリが彼女の窓を叩き続ける夜がありました。



─逃げないでください、あなたにしかできないのです。

魚の声がする、瞬きのすぐ隣には魚の足音でいっぱいだ、
魚たちは直ちに影響はない、直ちに被害はない、未来の子供にも安全であるというかりそめの指切りをした私たちの姿だ。かけがえのなかった一人ひとりと、交換できる世界のハザマの魚たちよ

もしもあなたがその友達に触れたいと思うなら、その友達はどこにでもいるだろう、
もしもあなたが友達に会いたいと祈るなら、あなたの網膜の上に、服の香りに、彼女は昔から宿っているのだろう
あなたがまなざしになる、あなたが耳を傾けるそうすれば、




光は反射していく、音楽は反響していく

過ぎ去ったものは、二度とは帰ってきません。同じ場所、同じ時間は二度とはやってこない。
けれど、うしなわれないものがそれでもあると、私はずっと信じて生きたいのです。
そうしていれば、私たちの思うことや、ただここにいることが、お互いを知らない私たちの心に届くと思うから。



─私には力がありません。けれど、私は医者です。必ず助けます。
何年かかっても、何十年、何百年かかっても。




─私たちはいつか負けるかもしれない
それでもまた、必ず歩いていく、私たちにはこの両足がある


魚に喰われて透明になってしまった私たちのガラスの義足が、
未来永劫、私たちの強い助けとなってくれる・そしてそれが、うしなわれてしまったあなたが
ずっと近くにいてくれることの証拠になってくれる・そんな私たちの思いがあなたに少しでも届くなら
そして何もできないと悲しみにくれるあなたが、
私たちの手があってそれだけで、誰かを助ける日がきっと来ると、
背中を押すことができたらと、祈り続けています。



約束をしよう。あなたを連れて行く。愛しているものを全て、遠く遠く未来まで。
消えないようにして、私たちの亡霊よ。
わたしがいる。わたしがそばにいる。

私にはあなたのことが、はっきりと、見えている。