顔合わせを終え、更にヨタ話。 その他 2009年04月06日 0 こんにちは。小林です。 季節はすっかり春になりまして、桜がようやく桜らしい季節に咲くことができましたね。 さてさて、一昨日次回公演の顔合わせを無事終えることができました。つつがなく平穏無事でございました。いや、むしろ顔合わせの段階で戦々恐々とするなんて、私には想像ができませぬ。ハハ! 前回の旗揚げ公演に比べると、人数はやはり少ない。ですが、先週に客演を終えたインハイスに比べると、ちょっと多いので、私は逆に「少ない」とは思わなかったわけでございます。 遅れましたが、インハイスの公演にご来場して下さいましたお客様方々、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。是非とも、我らが獣の仕業もよろしくお願い致します。 最近の私は変わった夢を見てます。というか記憶に残って「変なの」と思ったものなのですが、二つあります。 一つは、あの日本共産党の志井委員長と将棋を指してました。場所は喫茶店で、恐らくドトール。 志井委員長には、なんというか特別な思いがあるわけではないのですが、いや本当に何故あなたが?という感じです。 ま、ま、ま、それはまだよいとして、これが卑怯なんですよ。 どう卑怯かというと、いきなり成り駒を差してくるわけです。 この表現が合ってるかは分かりませんが、とにかく取った駒を裏返してくるわけです。馬やら龍をバンバン布陣の中に打ってきて、あっと言う間に詰み。 「ひでえ!」と言っても本人は悪びれる様子もなく、「私たちの党ではこうしてます」とのこと。なんだかグウの音も出ず、奥歯を噛みしめてしまいます。 これは志井委員長がどうと言うよりも、私自身に問題があるのでは、と思ってしまいます。 まあ何はともあれ、夢でよかったです。いろんな意味で。 というか、将棋って難しいですね。チェスは取ったら終わり。将棋はよみがえる、というよりも寝返る。 大学で敬拝していた社会学(哲学・思想)の教授によると、チェスと将棋は近代社会と原始社会を表しているそうです。 ドゥルーズの原始領土機械というテーマで扱ったのですが、徹底的な平和を望むのは徹底的な殺戮・制圧を生むものである、と。近代社会は、平和を脅かす存在に対しては徹底的な駆逐を行い、それは見事に残虐なる社会の形成に寄与する。 元来人間を含めた生物は戦います。それはじゃれ合うと言う方が適当で、犬もライオンの子も兄弟でじゃれ合う。じゃれ合うということは、もちろん単独ではできない。じゃれ合いが発展したものが戦いであり、それは殺戮に至ることはない。 原始社会では他部族・もしくはその共同体の中で戦う。彼らはそれを、ただ小突き合うだけの遊びと無意識的に認識しています。戦いの相手が傷つけば戦いをやめる。戦いは彼らにとって遊びであるから、それ以上の攻撃をする必要はないのです。 一方、近代社会は平和という大義名分の元に、とかく悪を根絶やしにし、どんなに乞われようともその命を奪う。それこそが民衆にとっての平和になりますから。 いわゆる野蛮人と呼ばれる原始社会の住人よりも、近代社会の住人の方が遙かに悪と呼ばれるにふさわしい。 そんな両者が対峙したとしても、前者は遊びのつもりなのだから、負けるのは必至。それがインディアンやアボリジニーなどの先住民が駆逐された所以だと彼は言います。。 確かに原始社会には贄などの習慣はあります。ですが、それは彼らの信仰心・風習によるもので、決して殺戮ではありません。今の、原始人は野蛮であるという短絡的な思い込みは、間違いなく、彼らを駆逐したことを正当化するために、近代人らが自ら謳い継がれたものであります。 そして近代人は、平和という大義名分に身を隠し堂々と殺戮を行っているのです。 日本の将棋と西洋のチェスは、なにも国土的な話ではなく、その似ている二つのボードゲームの中には消された命と再度与えられた命の実話が内包されているのです。 というようなことを教わりました。私の考えというよりも、印象に残った話でした。 まあ、最近面白きことが書けないので、いっそと思い書いた次第でございます。 乱文だとは思います。お許し下さい。 いやぁ、夜桜の綺麗なこと。 ではでは。あっ、あとこれからは更新は週1くらいのペースになるかと思います。 どうぞご理解の程よろしくお願いします。 では、おやすみなさい。 PR