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獣の仕業のしわざ

劇団獣の仕業のブログです。 日々の思うこと、 稽古場日誌など。

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第六回公演「オセロ - Othello the Shakespeare - 」終幕のご挨拶と2013年のご挨拶

あけましておめでとうございます。立夏です。
 昨年はお世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。

 はじめてこのブログに訪れてくださった皆様、はじめまして、獣の仕業です。
 ご来訪いただきましてありがとうございます。

 さて、まずは昨年9月に上演されました「オセロ」につきまして、ご来場いただいた皆様・ご声援くださった皆様まことにありがとうございます。
 その後すぐに女優で所属しているDramaticCompany Inhighsの公演の稽古に入ったのとそのほか個人の事情でしばらくまとまってお返事を書く時間が取れなくなっていました。
 あっという間に年を越してしまって、すいません。
 その間にも「ブログ見てますよ!」と声をかけていただくことが何度かありそのたびに恐縮でした。。。
 こうして皆さんにようやくご挨拶をすることができて、本当に嬉しいのと、一安心という気持ちと…。

 お客様にいただいたご感想をまとめました。毎公演これが宝物なのです。
  ◆獣の仕業第六回公演「オセロ - Othello the Shakespeare - 」感想まとめ
  http://togetter.com/li/381789

 「オセロ」は皆様に暖かくご支援いただきまして無事に終幕いたしました。
 また今までで一番お客様からの反響が大きかった公演でもありました。手放しにほめていただけ方もいます、真っ向からNOと仰った方もいます、今までの公演と比較してお言葉下さった方もいました。どの方もどの言葉も本当にありがたく頂戴いたしました。
 獣史上ないバタバタ感と密度の中であっという間の本番二日間。千秋楽には台風まで来まして、何とかメンバーも電車で帰ることができて、私は藤長の家に泊まらせてもらったのですが、ふたりともなかなか寝付けなくて皆さんの感想を読みながらにやにやしたり「むーん」と真面目に考え込んでしまったりして、いい夜でした。帰宅した参加メンバーもそれぞれに思いを抱きながらの岐路であったかと思います。
 
 始まる前は第五回公演「せかいでいちばんきれいなものに」で作家としても演出としても今までの集大成としてひとつ「やりきってしまった感」があり、バースト気味だったものですから、シェイクスピア作品の脚色演出・・・ソンナノデキルワケナイヨーとうじうじしていましたが、まあこれはいつもそうですね、企画立ち上げして脚本の締め切りなんか決まってきますとすごく落ち込んでしまって「ああ、どうしてやると言ってしまったんだろう、本当に辞めてしまいたい今から誤れば中止にならないだろうか」と一日中悩んだりするもので、稽古が始まったら始まったでまた上手くいかないことばかりで本番も怖いですし体力的にも精神的にも消耗してイヤヨイヤヨ状態でした。
 それが本番お客様の拍手を頂くと吹っ飛んでしまって、「よかった」と言われると天にも昇る気持ちになっちゃって、打ち上げのときには「次は何をやろうかなー」ってみんなでまたくっちゃべってるわけだからこの変わり様ったらむしろ、もうこれこそが「続ける」という才能なのかな・と思っています。

 「オセロ」公演の内容についてや取り組んだ事などについてはまたどこかで。今回は映像スタッフの方に力作の映像を撮影いただきましたので、今回の「オセロ」また何らかの形で皆様にお目見えする日が来る・・・予定です・・・!!

 獣は今年の公演についてすでに動き始めています。またお知らせできることもすぐあるかと思いますので、よろしくお願いいたします。

 また最後になりましたが、昨年私たちの出演したさまざまな舞台についてご観覧いただきましたすべてのお客様に感謝いたします。ING進行形、マクガフィンズ、劇団ゴールデンタイム!のお客様とスタッフ・キャストの皆様にも本当に感謝いたします。そして私の代表、DramaticCompany Inhighsの左さん、いつもありがとう。

 本年が皆様にとってよい年になりますよう。また獣の仕業を今年もよろしくお願いいたします。

  立夏 拝
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第六回公演「オセロ - Othello the Shakespeare - 」初日終了しました。

立夏です。



第六回公演「オセロ Othello the Shakespeare」無事に初日の幕を上げ、終了しました。

明日はもう千秋楽です。うちは土日のみの公演なので、初日の翌日は即千秋楽ですね・・・。

いろんな方に「もっとロングランをやればいいのに・・・」と勿体なさそうに言っていただけています。

言っていただけることがそれ自体、幸いなことと思っておりますが、

確かにあれだけ稽古に稽古を重ねて、上演が二日間だけと言うのは、本人たちとしても何より、…もっとたくさんのお客様にこれを、届けたいと思っておりますから・・・



前置きが長くなりましたが、初日全3ステージ、ご来場いただきましてまことにありがとうございます。

各回、役者、スタッフ一同、精一杯お届けいたしましたが、いかがだったでしょうか。

メールでもご感想をお待ちしております。

一言でも、叱咤激励でも、すべて私たちの糧になりますので、

もしお時間がありましたら、お言葉いただければとてもうれしいです。







今回千秋楽前に筆をとったのは、

今回特に、お客様に支えていただいて上演ができている、ということを強く感じたからであります。

オセロを経て、今までの公演も当然そうだったのだと、かつての公演のことを思い返しています。

来てくださった方はもちろん、今回はお運びいただけなかった皆様からのたくさんのお言葉を頂戴しております。

本当に、愛していただいていると思います。



それに、どうやって、どこまで、まっすぐにお答えできるか・・・



今回APOCシアターは非常に残響の強い劇場です。

声は大変よく響かせていただいているのですがその分音が奔流し、劇場に入ってから随分手を入れています。



そしてその環境の中で、お客様が実際にはいられると、響きが随分変わります。

人間の体や衣服は少なからず音を吸収します。

つまり私たちの台詞の奔流を、お客様ひとりひとりが引き取ってくださっている・・・



私はよく、事あるごとに演者たちに申し上げておりますのが、

「あなたたちだけがお客様に届けるのではない、

 あなたたちが何か・どんな些細なことでも伝えようとするたびに、お客様もじっと、それでも大きなものを、

  客席から【表現し続けてくれている】のだということを忘れないでください」と



演者が一方的に伝え続け、お客様から何も受け取らない、お客様の呼吸に耳を傾けないこと目を配らないこと・・・

 個人的な思いでありますが、私にとってそれは演劇(または舞台表現)ではありません。



きてくださるお客様も、私たちと同じかまたはそれ以上に表現者なのです。

舞台上には照明が強く照っています。

対して客席は暗くなっており、お客様の姿は暗闇の中に隠れています。

ですが、舞台上にいる演者もとよりスタッフは、その暗闇の中からお客様を見つけるべきなのです。



ほかの団体様がたがすべてそのようにしているかといえば、おそらくそうではありませんが

少なくとも獣の仕業の製作者たちは、暗闇の中の皆様の姿をいつも見つめ、その音を聞いています。

隣にいる自分の共演者たちに送る視線と同じように全神経を集中してあなたたちの表現を感じようとしています。



私(わたしたち)にとっては、それが舞台表現です。



どんなに常識を超えても、どんなに激しい動きであろうと、私たちはあなたがたひとりひとりのことを知っています。



ですから、私たちを見に来てください・だけではお願いは足りず、

 どうか私たちに、あなたの・あなた自身の表現を、教えていただけないでしょうか。



皆様と、あなたと、出会えることを心よりお待ちしております。







立夏 拝

はなをおくる

立夏です。

今では随分自分を取り戻したけれど、
二週間前、自分の大切な人が亡くなりました。

一体どういった事なのだろう、自分の大切な人が、天寿を全うするでもなく・病気で長く伏せていたでもなく
予告なく、突然に、この世からいなくなってしまった。

一体どういう事だろう。ここは、何もかも傷ついていないようにして、やはり普通に今まで通りに回っているのだろうか。
あの人に関わっていた私以外の周りの人は、大人だから、隠しているのだろうか(でも後ほど気が付いた事には、皆それぞれ、深く傷ついていたのだ)

私は、私だけが不安で・傷ついているような気持ちになり、
今まで当たり前のようにできていた事が立ちゆかなくなった。

メールがきちんと読めない。本を読んでも頭に入ってこない。
いつの間にか何もしていない時間が出来ている。
電車に乗る事が怖い、大きな音が怖い。
知らない人と接触する事が怖い。
歩き慣れた道ですら、何度も迷った。

それもすべて葬儀に出席して、取り戻した。

ああ、本当に、そうなのだ・と。そして私が(私達が)あの人の居なくなって途切れた部分を繋いでいく事が、
これからもあの人を本当に、生かす事になるのだろう。
私は大丈夫になった。


それから芝居を見た。芝居のDVDだ。それは5年前、自分が大学を卒業したときに最後に携わった公演で、
後輩の皆様も沢山出演・協力してくれ、自分は脚本と演出をやらせてもらった。
今の獣のメンバーは殆ど、この公演に参加している。

下手だ。凄く下手だ。下手だと口に出して笑ってしまう程下手だ。
でも、いい。
当時はあれ以上出来ないだろう。そこを超えようとしてぐちゃぐちゃになって余計おかしくなってもいるが、それが(本人から言うのも烏滸がましいが)何だか、好ましい。

公演の映像が終わった後、最後のメニューには後輩の皆様からの卒業おめでとうのメッセージが録画されている。
私は自分の心が折れそうになって、何度も何度もそれを見た。

二年下の後輩である当時の部の主将が、私に対してこんな事を言っている。
繰り返し見続けた、何度見てもそれは同じ映像、同じ言葉だ、同じ表情だ。

「僕たちが芝居を続けて来れたのは、貴方のお陰です」

全て同じである筈なのに、それは毎回違ったように私の耳に届いてくる。

ありがたい。

また始める事が出来るだろう。
またここから始めたらいい。

今、出来れば、面と向かって言いたい、彼らに。
「私達が芝居を続けていけるとしたら、それは貴方たちのお陰です」と。




おそれ(「せかいでいちばんきれいなものに」:終演)

獣の仕業第五回公演「せかいでいちばんきれいなものに」は、
無事に3月10日11日、計二日間の公演を終えた。

いつも終わった後は、まだ芝居の言葉や彼らの役の佇まいが残っていてなかなか現実に戻る事もできず、
一週間くらいふわーと過ごしている・のだが、今回はあまりそれがない。
個人的な仕事の事情の分が勿論あるのだけれど、今回は作ったものの内容が「そうだったから」だったと思う。

3月12日月曜日。芝居の終わった次の日の風景は、芝居の中にあった風景と続いているように、私には見える。
「鳥が歌っていて、魚が泳いでいて、高いビルが崩れることなくそびえ立」っている。

ここは、「雷魚」のときのような、本の沈む青街灯の街ではなく「東京」で、
ここは、「飛龍伝」からは何十年も経った「現在」で。

舞台にいたのは、確固とした役柄ではなく、
雑賀だったし、藤長、小林、手塚、凛子、田澤、水川だった。(またはそれに限りなく近い別の誰か)


おそれ、のようなもの。

今回ほど、稽古中から本番までずっとおそれを感じていた公演は初めてだった。
有り体に言えば、おそれとは、私の揺らぎで、不安・だった。
本当にこれをかいていいのか。本当にこれをやっていいのか。
本当に望むものまで・・・。たどり着ける事ができるだろうか? と。

冬の寒い部屋で私は一ヶ月以上一文字も掛けずに、じっとしていた。
どれも正しくないような気がした。どれもいまの役者たちに相応しくないように思っていた。
そして、振り絞るような思いで書いた脚本は、雷魚よりも二万字、飛龍伝(テキレジ版)よりも一万字少ないもの、
風体は私の日記に似ていた。
断片的な・順序のない生活の蓄積。
書いた自分にも、それらの関連性ははじめはまるで分からなかった。
しかし書き終わった後、確かな手応えがあった。

稽古が始まると少しずつ違和感が生まれる。はじめ、稽古場で産まれる風景はすべて儚すぎた。
ちがう。と思った。そうきっと、もっと・・・。力強いもの・・・。
生きていくこと。普通に生きていくという事は、もっとタフで、そして突き動かされるような波のある事・・・。

初期の稽古場では、何度か役者に「私にこの人は見えていていいのか?この音は聞こえていていいのか?」と
聞かれた。私は答えた。
「物理的には違う場所かもしれない。遠くからの音かもしれない。けれど、あなたたちが見たいと思ったならそれは全部見えていていい。あなたたちが聞きたくないのなら、その音は聞こえない。」
稽古には確信があった。私は私に。私だけに従っていた。(いや、)作品だけに従っていた。

でも、稽古が終わって家に帰ればいつも不安だった。怖かった。絶対にできない、と思った。うまくいくはずがないと。
ひとりきりのような気持ちになり、いろんな人に絡んで、甘えた事もあった。

そのような私の心を強くしてくれたのは、役者たちだった。
照明家さんと、音響家さんは、獣の仕業の事をとても理解してくれていた。
なじみの方からは「たのしみにしています」とメールをたくさん貰った。
私は深く息をついた。
彼ら一人一人のなかに答えがある。
そして、観客のひとりひとりの心の中に向かっていけばいいんだと。
それでも私は怖かった。観客たち、つまりその日初めて出会う彼らに心を尋ねる・と言う事。
それはとても勇気のいる事だった。

本番、劇場にお客さんがやってくる。そのときも私はおそれている。
初回が終わって、アンケートを読んで、ようやく救われたような気持ちになる。
それでも次のステージがまた怖い。次はまた、違っているからだ。
さっきまでいた観客と、これから来る観客は違う。ひとりひとり違っている。
次の役者も、さきほどど同じではない。だから、1ステージ目と2ステージ目はまったく「違う作品」だ。

心を尋ねる、同じ言葉でも、同じように尋ねる事はできない。
仮に同じように尋ねられたとしても、絶対に同じ答えは返ってこない。

土曜日の3ステージが終わって、日曜日になってもおそれは消えない。
やはり昨日と今日は、違っているからだ。

昨日と、今日が、違っている事。それは今回の作品のテーマでもあった。
何もかも同じでも、すべてが違っている。
同じことをしても、私達はもうおなじではいられない。
毎日毎日私達は自分たちを無意識にさばき、傷つきながら生きている。

普通の生活の消耗。普通の生活の尊さ。
普通が繰り広げる、目に見えないニュースにならない透明な傷のようなもの。
見えなくても、痛くなくても、苦しくなくても、それはわたしたちの体と心になにかを及ぼしている。
私達は、それを愛していけるだろうか?そんな風に生きているこの場所を。

上演中、私は劇場内通路の一番後ろに立っていて、
そして何度か指を組んで、祈るようにしていた。実際、本当に祈っていた。
どうか。どうか。と思っていた。上演中、私にできる事はひとつもない。
(冗談だが何度か今回は舞台上に乗り込んで声を掛けようと思った事もあるが、勿論実際にはやらない)
無力なものだ。でもそれでいいと思う。作品は最後はすべて、役者と観客のものだ。

今日、昨日とも明日とも違う今日に、役者と観客が出会ったこと。

本当にありがとうございます。

彼らの音や光を、聞いていてくれてありがとうございます。

彼らも、あなたたちを見ていたと思います。そして本当にすてきなものを、受け取ったと思います。


また、お会いできる事を、願っております。


(獣の仕業第五回公演「せかいでいちばんきれいなものに-Today-」に寄せて)


立夏