忍者ブログ

獣の仕業のしわざ

劇団獣の仕業のブログです。 日々の思うこと、 稽古場日誌など。

獣の仕業第十回公演「瓦礫のソフィー」終演のご挨拶(「瓦礫の中の知性」によせて)


獣の仕業「瓦礫のソフィー」ご来場いただきありがとうございました。

 立夏です。
 千秋楽からすでに一ヶ月が経過し、年も新たになりました。
 昨年12月に上演された獣の仕業第十回公演「瓦礫のソフィー」[See you, and thanks for all the Fishes]にご来場いただいた皆様、ご声援下さった皆様、ご協力いただいた皆様、ありがとうございました。
 毎度のことですが、ひとつの公演を計画し、打ち上げるというのは私たちだけでは到底できないことであり、回数や年月を重ねるほどいよいよそれがどれだけ貴重でありがたいことかを身にしみて感じております。心より、御礼申し上げます。



 12月5日と6日、2日間たった4回だけのステージ。初日の翌日はもう千秋楽。この2日間のために、3ヶ月稽古してまいりましたが、上演が始まればあっという間のことでした。皆様におかれましては、いかがでしたでしょうか。少しでも楽しんでいただけましたら、私どもとしてはこれ以上のことはありません。

 また、全ステージ満席となり、ありがたいと同時に、お客様にとっては客席のご負担もあったかと思います。そんな中、お客様には多くのご協力をいただきました。そのような状況にも関わらず、盛況を喜んでくださるお客様のお声も耳にしました。いくら感謝しても足りません。ご来場頂いた皆様には改めて御礼申し上げます。

 成功した部分については今後も伸ばしていけるように、また、至らなかった点や未熟だった点は一層精進し、皆様によりよいものをお届けできるよう一同励みます。
 今後とも獣の仕業をよろしくお願いいたします。
 


 少しだけ、作品の話をさせてください。

 今回の作品についてはお客様の中で様々な解釈があることと思います(「今回の~」に限らず、この世のあらゆるものへの解釈は各個人で分かれるはずですが)。その中でも作中に登場した「虹」「シーケル」「ソフィア」とはなんだったのか? 特に「トーラ」とはなんだったのか? と言った質問をお客様の何人かからいただきました。

 そちらのご質問に関して、私ははっきりとしたお答えはしておりません。できれば、お客様ひとりひとりが感じて下さったことをそのままお持ち帰りいただきたくて。私が話してしまうと、その解釈で上書きされてしまうのではないかと感じて。
 
 しかし、色々なお客様のお話しを伺いますと、「自分はこう感じているけど、純粋に他にどのような解釈があるのか一意見として聞いてみたい」といった類のお気持ちである方が多いようでした。私がお客様の声を聞きたいと感じているように、お客様も創作者と対話をしてくださろうとしているのだと。
 心から嬉しく思いました。
 ですので、この場を借りて僭越ながら、少し話をさせてください。



 
 今回の作品は「『A』というひとりの人間の記憶」の中の物語でした。「人間の心の正体である光の粒子『ソフィア』を、思考支援ツール『シーケル』で再生する」というフォーマットの中で物語は進んでいきました。

 しかしその「A」のソフィアは、つまり彼女の意識・記憶・体験は一部のデータが飛び、破損し、寄せ集められた──いわば、瓦礫の状態だったのです。
 
 
 それらの瓦礫になった記憶が寄せ集まりできあがっていたのが、食卓のシーンです。
 あの風景が本当にあったことなのか、それともほとんどAの妄想であったのかは、A本人にも分からないことです。
 ただしそれらの瓦礫は、ただ狂ってしまって何も分からなくなってしまった女の残骸ではないのです。老いても、訳が分からなくなってしまったとしてもその中にも必ず、明晰な知性が宿っている…これが私が「瓦礫のソフィー」を書き始めた原動力であり、タイトル本来の由来です。


食卓かも知れなかった風景

 そのAの「ソフィア」がこれ以上壊れないようにと、Aを「救助」しにきたのが「Z」でした。

 瓦解してしまった記憶、それらが幾度か組み直される形で様々なシーンが構成されていました。これらは稽古場でどのようにシーンを立ち上げるかから稽古場で俳優たちと創作しました。場所への「居方」や言葉の「あり方」から…です。
 これまでで一番、獣の仕業の稽古場が「創作」という形に近付いたモノだと思っています。シーケルの技術の説明、ソフィアという粒子についての解説──「私」を語らないテキスト群に対して俳優の戸惑いははじめはとても大きなモノでしたが、まっすぐに向き合い忌憚ない意見もくれ、今後の獣の仕業の稽古場の進むべき道を示してくれました。(何だか手前味噌な話になってきてしまいましたが)これが、劇団にとっては一番の収穫であったと思っています。



 そして最後に現れた光「トーラ」とはなんだったのか。そして彼らの命を奪った「虹」はなんだったのか。これに関しては私はいよいよ、語る言葉を持ちません。虹に関しては私の語れる言葉をすべて作品に記述したから、そしてトーラは、私には語り得る言葉がないからです。
 もしかしたら一年後、あるいは二年後、ふと思うことがあるのかも知れません。このままずっと、分からないままなのかも知れません。もし、ご覧になってくださった皆様があるときふと、「あれがトーラなのではないか」など思うことがあれば、それがこの作品にとって一番幸福なことです。



 改めて、ご来場頂いた皆様、ご声援下さった皆様に感謝致します。作品に大きな力を与えてくれたスタッフ、依り代となってくれた出演者にも感謝します。

 これからも願わくば、私たちが舞台に立たなければこの世に生まれなかったものを。そして、私たち自身が心より素晴らしいと思えるものを。ありがとうございます。心より御礼申し上げます。

 2016年1月 立夏 拝
PR